第4話 凡人未満

18歳のとき、地元を離れた。


特別な理由があったわけじゃない。ただ、家から離れたかっただけ。

誰かに褒められた“絵”を、そのまま“夢”に仕立て上げ、進学を選び上京した。


周りに興味を示さない、東京の冷たい空気は

地元よりも、幾らか息がしやすかった。



人間で溢れかえったこの街でも、あの細い瞳孔だけは、変わらずわたしの隣にいた。



数年が経って、わたしは23歳になっていた。

黒猫は2回り、いや3回りほど大きくなっていた。


ねえ、黒猫。

「あなた、ちょっと大きくなりすぎじゃない?」

黒猫はただ、にゃあと鳴いた。


それはほんの冗談のつもりだったけれど、

ある日ふと、本当にそうかもしれないと思った。


ただの猫のサイズじゃない。


ときどき、部屋の隅でこちらを見つめるその姿が、人程の大きさに感じたことすらあった。

わたしの中で育っている“なにか”を、黒猫が代わりに、黙って育ててくれているような気がした。


23歳のわたしは、専門学校を出て、ただがむしゃらに働いていた。

新しい人と出会い、離れ、居場所を見つけては、また失った。

東京に来たからといって、得られたものは特になかった。


薄い愛想笑いと、薄い人間関係。

「一人じゃない」けど、「誰もいない」。


楽しくはなかった。

死なないために生きる、そんな毎日だった。


社会に出て、働きはじめてからは上手くいかないことばかりだった。

きっと慣れれば、普通にできるようになるって。

上手くいかないのは、最初だから。時間が解決してくれる、努力すれば追いつける。そう思ってた。

周りの人たちみたいに、上手に笑って、空気を読んで、失敗も減らして、

「凡人」としてちゃんと社会に馴染める日が来るって、どこかで信じていた。

わたしは普通なのだから、と。


でも違った。


どれだけ時間が経っても、わたしの失敗は減らなかった。

メモを取っても、何度も確認しても、次にはまた別のことを忘れていた。

同じ注意を、何度も受けた。

自分でも、何が抜けているのか分からなかった。


頑張っているのに、どこかがいつも抜け落ちていた。なにひとつ、上手くいくことはなかった。


気づけば、上司の言葉は簡潔になり、同僚との会話は必要最低限になっていた。

笑われているわけじゃない。責められているわけでもない。優しい言葉をかけてもらえる。

でも、「もう何も期待されていない」と分かるその空気が、喉に張りついて、息苦しかった。



――ある日、ふと気づいた。



わたしは、「凡人」にすら届いていなかったのだ。


それに気づいた瞬間、自分という輪郭が、

ゆっくりとこの世界から剥がれ落ちていくような気がした。


わたしは人よりも明らかに劣っていたのだ。


普通の人が10%の力でできることを、私は60%出して、ようやくこなしていた。

常に気を張って、それでも足りず、いつも消耗していた。

ただ厄介だったのは、そんな自分を理解できる程度の知能だけは、ちゃんと備わってしまっていたこと。



それは、“死にたい”と思うよりも、ずっと怖い気づきだった。



今まで漠然と考えていた「死にたい」という感情が、輪郭を持って立ち上がってきた。

“生きづらい”という現実を、わたしははっきりと理解してしまった。


ねえ、黒猫。

「わたし、どうして生きているの?」


数年前と同じ問いかけだった。

でも違うのは、今のわたしは、はっきりと“死にたい理由”を知っているということだった。


黒猫は、やっぱり何も言わず、にゃあと鳴いた。

その鳴き声は、やけに近く感じられてまるでわたしの心の中から、鳴いているみたいだった。


黒猫は、ただそこにいるだけなのに、

なぜかその存在が、自分の絶望を肯定してくれるような気がしてしまった。


ねえ、黒猫。

「そりゃそうだよね。

誰も、愛してくれないよ。

誰も、必要としてくれないよ。

だってわたしが、誰のことも愛せないんだもん。」


黒猫は、何も言わなかった。

ただじっと、わたしの奥底を見透かすように、瞬きもせず、細い瞳孔をわたしに向けていた。


優しい言葉が欲しかったわけじゃない。

正解を求めていたわけでもなかった。

ただ、「わたしはここにいる」と思える瞬間が、少しだけ欲しかった。



いつしかわたしは、仕事を終えて帰る電車の中

泣かないよう、ただ呼吸を整えるのが習慣になっていた。


誰にも迷惑をかけずに、静かに、誰かの視界に入らずに、今日を終える。

それだけが目標だった日も、あった。


そして、帰宅して玄関のドアを開けると、黒猫がいた。

暗がりの中で、わたしを見上げてにゃあと鳴く。


その瞬間だけが、唯一の「おかえり」だった。


ねえ、黒猫。

「こんなわたしにも、生きてていいって、言ってくれる?」


黒猫は、また何も言わなかった。

でもその沈黙が、わたしを否定しなかった。


──わたしがこの街で生きている理由は、まだ分からない。

でも、たったひとつだけ、確かなことがある。


あの真っ暗な箱の中で出会ってから、

ずっとわたしの隣にいる黒猫だけは、今もここにいる。


誰にも言えなかった痛みも、

誰にも届かなかった叫びも、

全部知っているのは、あなただけだ。



ねえ、黒猫。

「わたし、“凡人未満”でも、生きてていいのかな」



黒猫は、目を細めて、小さくにゃあと鳴いた。



――それだけで、今日は少しだけ、生き延びられる気がした。

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