第2話 いばらの道
放課後、職員室で山積みにされた書類を整理していると、静かに扉が開く音がした。顔を上げると、そこには月影美咲が立っていた。
「先生、まだ帰らないの?」
「教師は色々とやるべき仕事があるの。あなたこそ、こんな時間にどうしたの?」
「先生に会いに来ただけだよ」
彼女は屈託なく、まるで子供のようににこりと笑う。しかし、その笑顔の奥に何か意図があるのは明らかだった。
「授業での態度のことならもう言ったはずよ。これからは真面目に受けなさい」
私は机に手を置いたまま、言い聞かせるように言った。けれど彼女はそれに反論するでもなく、ただ柔らかく頷いた。
「それはそれ。あたしはただ、先生がどんな人なのかもっと個人的に知りたくなっただけ」
「……私のことを知って、何になるの?」
「先生、すぐ真面目な顔するから面白いんだよね」
彼女は私の机に肘をつき、じっと私を見つめる。その視線に、私はどう返せばいいのか分からなくなった。教師として毅然とした態度を取るべきなのに……。
「……部活もないなら帰りなさい」
「先生が帰るなら帰るけど」
「私はまだ仕事が——」
「じゃあ、終わるまで見てるね」
けれど、私の仕事がなかなか終わらないことに業を煮やしたのか、あるいは飽きたのか、彼女はしばらくして静かに職員室を出て行った。
「いったい何がしたかったのかしら……」
単なる暇つぶしなのだろうか。それとも、もっと複雑な何かが隠されているのだろうか。彼女の言葉の真意を測りかね、私は深い迷路に迷い込んだようだった。
小さく息をついて、私は目の前の書類整理を再開した。けれど、すぐに別の声が私を呼び止める。
「朝比奈先生、ちょっといいですか?」
声の主は、学年主任である杉本先生だった。四十代半ばの男性で、教職歴は私よりはるかに長い。ベテランらしい落ち着きを持った人で、職員室では頼られる存在だった。
「はい、何でしょうか?」
杉本先生は私の前に椅子を引き、少しだけ声を落とした。
「……月影美咲さんのことです。彼女には色々と難しい背景があります。何度も言いましたが、あまり深入りしない方が先生のためです」
思わぬ忠告に、私は一瞬きょとんとした。
「それは聞きましたが、どうしてですか?」
「彼女の指導に関しては、他の生徒と同じように、というわけにはいかない部分があるということです。月影さんはこの学園の理事長の孫娘です。その事実は、当然朝比奈先生もご存知ですよね?」
杉本先生は、私の目を見ながら穏やかな口調で言った。しかし、その言葉一つ一つには、経験に裏打ちされた重みと、暗黙の警告が含まれているように感じられた。
「はい……」
この学園に赴任した当初から、理事長の孫娘がこの学園に在籍しているということは耳にしていた。そして今年、その生徒が私のクラスにいることも。しかし、それが現場の教師の指導にここまで影響を与えるものだとは想像していなかった。
「理事長はお忙しい方ですから、直接我々に口を出すことはほとんどありません。しかし、それでも彼女が何か問題を起こした場合、こちらが他の生徒と同じように毅然とした態度で強く出るのは……やはり難しいんです。色々なところに忖度というものが働きますから」
私は教師として、すべての生徒を平等に扱うべきだという理想を持っていた。だというのに、生徒の背景や立場によって指導の難しさが大きく変わるという厳しい現実を、あらためて突きつけられた。
「今までも、彼女に注意した先生は何人もいました。でも……彼女はどこか、人の弱点を見抜くのがうまいんです。教師が言いにくいこと、触れられたくない部分を的確に突いてくる。それで、結局誰も本気で向き合えずに終わってしまう」
私は杉本先生の言葉を噛みしめる。それは過去に彼女と向き合おうとした教師たちの苦い教訓のように聞こえた。
「……それでも、彼女が数多いる生徒の一人であることに変わりはありません」
「もちろんです。それでも、たった一人の生徒のために教師自身が傷ついてしまっては元も子もありません。それでは、他の生徒たちに十分な指導ができなくなってしまいますから」
杉本先生の言葉は正論だった。教師が潰れてしまえば、ほかの生徒に影響が出る。個別の生徒に深入りすることで、クラス全体のバランスが崩れることだってあり得る。
頭では理解できる。しかし、私の心はどうしても納得することができなかった。
「私は……教師という仕事は、単に知識を教えるだけでなく、生徒一人ひとりと真剣に向き合い、彼らの成長を支え、彼らが抱える悩みや苦しみに寄り添うことだと思っています」
「それは理想論ですよ、朝比奈先生」
杉本先生はそう言って、少し寂しそうに苦笑した。それは、私の理想を否定するのではなく、それが現実の前では、いかに脆く儚いものであるかを教えているようだった。
「朝比奈先生、あなたはまだお若い。きれいごとだけではこの仕事は続きません。教師も人間ですから、自分の心を守ることを第一に考えなければならない時があるんです」
「そうかもしれません。おっしゃる通りかもしれません。それでも……」
私は机の上の書類に視線を落としながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「教師が生徒に対して最初から一定の距離を取り、深入りすることを避けてしまったら、生徒との間に心の壁ができてしまい、何も変えることができないのではないでしょうか? 生徒の良いところも、悪いところも、その心の痛みも、何もかも見過ごしてしまうことになるのではないでしょうか?」
自分でそう言っておきながら、それがいかに青臭く、無力な考えなのかも、心のどこかで分かっていた。
彼女は、私がどんな言葉を投げかけようと簡単には変わらないかもしれない。それどころか、私が彼女のペースに巻き込まれ、深く傷つき、疲弊して終わる可能性の方がはるかに高いだろう。
それでも——。
彼女の瞳の奥に、時折強い光のようなものが宿るのを感じたのは、ただの気のせいだろうか。それは、反抗や挑発といった感情とは異なる、もっと深い……複雑な感情のように思えた。
授業中のあの挑発的な態度。職員室での意味ありげな微笑み。
もしかして、彼女は……誰かに自分のことを気にかけてほしかったのだろうか。誰かに、自分の心の奥深くにある孤独や不安に気づいてほしかったりするのだろうか――――。
「……朝比奈先生」
杉本先生は、少しだけ柔らかく、心配そうな声で私を呼んだ。
「理想を持つことは素晴らしいことですが、その理想を守るために自分自身をすり減らし、教師という仕事を嫌いになってしまわないように気をつけてください。あなたの教師としての人生は、まだ始まったばかりの二年目なのですから」
私はその言葉に、ゆっくりと頷く。
「ありがとうございます、杉本先生。肝に銘じます」
正しいのはどちらなのだろうか。私の考えは、やはりただの理想論に過ぎないのだろうか。それとも、杉本先生の言うように現実を直視し、ある程度の距離を保つことが教師として生き残るための最善の方法なのだろうか。
それは、まだ分からない。私には、まだ答えを見つけることができない。
けれど、私はもう、月影美咲という生徒を気にしないふりはできなかった。彼女の存在が私の心に深く刻み込まれてしまった以上、彼女と向き合わざるを得ないのだ。
たとえ、その先がいばらの道であろうとも。
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