担がれぬ者たち

広川朔二

担がれぬ者たち

下町の路地裏に、早朝から太鼓の音が響いていた。

それは目覚ましのように町を叩き起こし、店主たちはのれんを出し、町会の男たちは神輿蔵の扉を軋ませながら開けた。


湿ったアスファルトの匂いに混じって、揚げ物の匂い、線香の香り、焼きそばの鉄板が熱される音が交錯する。軒先には提灯が吊るされ、路地には青いビニールシートの上に並べられた折りたたみ椅子。街のすみずみが「祭り」という緊張と興奮で満たされていた。


神輿を準備する男たちの動きには、誇りがあった。真鍮の鳳凰を磨く手、担ぎ棒に巻く晒を結ぶ指先、法被の背に記された町名――誰一人、言葉は多くなかったが、そこには確かな共同体の静かな熱があった。


そんな町の空気を切り裂くように、声が響いた。


「Yo! Look at this, man! This is crazy!(おい見ろよこれ!マジでヤバいって!)」


声の主は、金髪の若い男。同じくタトゥーの入った二の腕を見せた大柄の白人、やたら背の高いラテン系の髭面男とで三人組。どこかのバックパッカーか観光客らしく、手には缶ビールが握られていた。早朝から酒の臭いを漂わせ、路地にふらふらと現れた。


彼らは神輿蔵の前で立ち止まり、スマホを向けた。そして笑いながら、法被姿の老人にピースサインを強要するようにレンズを向けた。


老人は眉一つ動かさず、黙って作業を続けた。


「Hey, hey! Can we touch this? This gold thing?(なあなあ、これ触っていいの?この金ピカのやつ!)」


白人の男が神輿の飾りに手を伸ばしかけた瞬間、隣にいた若い担ぎ手がその手をはたいた。

軽く、だが明確に拒絶する力だった。


「それに触るんじゃねぇ」


抑えた口調で、そして目だけが鋭く光っていた。


三人は一瞬たじろぐが、すぐに笑って引き下がる。


「Relax, man! It's just a photo!(落ち着けって!写真撮るだけだろ!)」と吐き捨て、次の屋台通りへと歩いていった。


町の男たちはその背を見送るだけだった。誰も追いかけず、怒鳴りもしない。だが、その沈黙の中にある異質な静けさを、観光客たちは気づかない。


屋台通りでは、すでに祭囃子が始まっていた。太鼓と笛、そして遠くから聞こえる祭りの掛け声。それはこの町の“声”であり、“心”だった。


午後になり、町は熱を帯びていた。陽が照らす通りには、屋台の煙が立ちこめ、鉄板の油が弾ける音に混じって、太鼓の音が規則的に鳴り響いていた。


町内を回った神輿は担ぎ手の男たちの休憩所で次の出番を待つように静かに佇んでいる。


観光客はさらに増えていた。浴衣を着た外国人のカップルが写真を撮り合い、子ども連れの家族がかき氷を分け合いながら笑っている。熱気はあるが、どこか品のある静けさが町を包んでいた。


その空気を、またしても乱す者がいた。


あの三人組の欧米人――金髪の男、短髪の大柄な男、そしてひげを蓄えた長身の男。

Tシャツは汗で湿り、缶ビールの空き缶を片手に持ち、ゴミ箱に入れずに地面に放り投げている。


「Hey! Let’s get a picture on that thing.(なあ、あれ乗っかって写真撮ろうぜ)」


金髪の男が、町内の祭具を飾っていた神輿型の置き物にまたがろうとする。周囲の子どもたちが目を丸くし、母親が小さく首を振って制止する。


「それはね、またがるものじゃないのよ」


優しく言った日本人女性の言葉も、彼らには届かない。英語で説明しようとした若者もいたが、彼らは笑いながら肩をすくめ、携帯で動画を撮っていた。


「What’s the big deal? It’s just decoration.(何が問題なんだよ?ただの飾りだろ、これ)」


町の男たちは何も言わなかった。ただ、ひとりの若者がゆっくりとそれを元に戻し、布をかける。彼は何も言わず、目も合わせず、ただその場を離れていった。


それでも三人は収まらなかった。屋台の列に横入りし、たこ焼きの鉄板に勝手に指を伸ばして「熱っ!」と笑い、写真を撮る。金魚すくいでは、柄杓で水をすくって投げ合う真似事まで始めた。


祭りの“空気”は確実に歪み始めていた。だが、誰も怒鳴らない。誰も手を出さない。代わりに、視線だけが集まっていた。神輿の担ぎ手たちはふと足を止めて彼らを見やる。その目は、怒りでもなく軽蔑でもない。ただ、静かに値踏みするような目だった。


日が沈みはじめ、提灯に明かりが灯るころ、三人は一軒の居酒屋へと入った。暖簾をくぐった瞬間、店内の数人が一瞬だけ目を上げ、すぐに酒に戻る。


狭いカウンターで、彼らは日本酒をあおりながら笑っていた。


「You see those guys? Like they’d kill you for touching their little shrine. Crazy, man.(見たか?あの連中、あのちっこい祭壇触っただけで殺しにきそうだったぞ。頭おかしいって)」


「No one even speaks English. This country’s stuck in the ‘90s.(英語もまともに通じねえしさ、この国マジで90年代で止まってんじゃね?)」


英語で交わされたその内容を理解したのかしていないのか、彼らを一瞥した店主は何も言わなかった。だが、その背中には明らかな緊張が滲んでいた。


そして、三人がまた路地へと出ていった頃には、祭りの熱気はずいぶんと冷めていた。太鼓と掛け声はもう聞こえず、通りは静けさを取り戻していた。


その静けさの中で、町の男たちはある地点へと向かっていた。

――神輿の一時安置所、町内会の倉庫へ。


そこに、明かりはない。ただ、鍵が一つ、かけられているだけだった。


そして、三人の外国人もまた、何かを企んだようにその倉庫の前へと向かっていた。缶チューハイの空き缶を放り投げながら、笑いながら。


「Is this it? The golden thing’s inside?(ここで合ってる?あの金ピカのやつ、中にあるんだろ?)」


金髪の男がポケットから小さなマルチツールを取り出す。南京錠の下部に差し込み、器用にひねると、カチリという音が夜に響いた。


彼らは躊躇なく中へと足を踏み入れる。


倉庫の中は薄暗く、湿った埃の匂いが漂っていた。スマートフォンのライトが辺りを照らすと、そこに静かに鎮座する神輿が現れた。その荘厳な姿は、昼間よりも重々しく、夜の闇と静寂が神聖さを際立たせていた。


「There it is. Damn, it’s actually kinda creepy.(あった。うわ、意外と不気味だなこれ)」


「Take a selfie. I’ll pose like I’m the king or something.(自撮りしようぜ。俺、王様っぽくポーズ取るからさ)」


男のひとりが神輿の前に立ち、足をかけようとしたそのとき――。


ライトが、反射した。


神輿の金属の装飾部分になにかが映っていた。

背後。人影。複数。無言。


「…Hey, what the f—(…は?なんだよ)」


振り返った瞬間、闇の中から鈍い音が鳴った。


ゴンッ


長身の男の手からスマホが滑り落ちる。次いで、もうひとりの叫び声が潰れるように消えた。それは静かな、しかし容赦のない“音”の連続だった。


鉄パイプ、木棒、角材。


男たちは声を上げる間もなく、無言の影たちに囲まれて倒れていく。


やがて、三人は古びたパイプ椅子に縛りつけられていた。口には布が詰められ、目の前には、昼間見たはずのあの法被姿の男たち。背中に町名を背負い、鉢巻を締め、無言で立っていた。


その誰もが、笑っていない。怒ってもいない。ただ、じっと彼らを見つめている。まるで、神輿の傷を確かめるように。


ひとりの老人が、ゆっくりと前に出る。昼間、神輿を磨いていた男だ。彼は静かに、木槌を床に置いた。口を開く。


「鍵壊して、神聖な場所に入ったな。“間違い”じゃねえ、“冗談”でもねえ.」


その瞬間、ひとりが暴れようとした。だが、隣の男の顔面に平手が飛ぶ。鈍い音。歯が飛んだ。


法被姿の男たちは、ひとりずつ、手に何かを持っていた。木刀。鉄の棒。なかには素手の者もいる。だが、目に宿るのは怒りではなかった。それは、儀式の始まりのような、静かな決意だった。


三人が気絶してからずいぶん時間は経ったのか、外では笛と太鼓の音が再び鳴り始めていた。どこか遠くで、神輿が担ぎ上げられたのか、「せいやっ!」という掛け声が響いた。


だがこの倉庫の中で、もう一つの音が鳴りはじめていた。


祭りの掛け声とは違うリズムの、重い音。鈍く、くぐもった、罰の音だった。





祭りは終わった。恙なく。そして昨夜までの喧騒が嘘のように、町は澄んだ空気に包まれていた。軒先に吊された提灯が風に揺れ、鳥のさえずりが空を渡っていく。


路地裏の倉庫の前に、不自然なものは何もなかった。錠前は新しいものに替えられており、周囲にはゴミひとつ落ちていない。まるで、誰ひとり近づかなかったかのように。


チェックアウト予定の外国人観光客が行方をくらました、そんな噂が立ったが誰も深く追及しない。ただ、神輿が通った道だけが、どこまでも清められたように静かだった。


どこか遠くの川べりで、誰かが警察と話していた。「白人の観光客がいなくなったらしい」と。だが、地元の人間たちは口を揃えて「知らない」と言った。「祭りは大勢いたから、見分けなんかつかないね」と。巡回の警官も、それ以上の追及はしなかった。


路地裏には、今日も何もない。ただ、風に揺れる提灯の影と、どこか遠くで鳴る虫の声だけが残っていた。外国人三人組の姿は、二度と町で見られることはなかった。町の人々は、彼らの名すら知らない。彼らの来訪は誰の記憶にも残らない。


そうして町にはいつも通りがやってきた。


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担がれぬ者たち 広川朔二 @sakuji_h

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