5-2 絵本の授業
春の風が教室の窓から吹き込む。
薄く開いたカーテンが揺れるたび、まるで何かがそっと囁いているようだった。
その日、ミカが学校に行くと、教室の黒板には新しいテーマが書かれていた。
「自分だけの絵本をつくろう」
国語の授業で、先生が静かに説明する。
「テーマは、“伝えたいけど、言えなかったこと”。
ことばが戻ってきた今、声に出せないまま残っている想いを、絵と物語で綴ってみましょう」
クラスメイトたちは、ざわめきもなく、でもどこか胸の奥がくすぐられるような気配のなかで、それぞれにページを開き始めた。
ミカも、静かにノートを開く。
彼女が描こうとしていたのは、“祖母が祖父に言えなかった言葉”だった。
言葉にしないまま過ぎていった時間。
もう戻らない人に、もう渡せない手紙。
でも――ミカはそれを、“過去の誰か”ではなく、“これからの誰か”に向けて描こうと決めていた。
ページには、老夫婦が縁側に座る姿が描かれる。
手にはお茶。言葉はない。でも、視線は交わっている。
次のページには、若い頃のふたりが並んでいる。
バス停。雨。濡れた肩。
傘を差し出す描写。その行動だけに「ありがとう」の気配がにじんでいた。
別の子の机をそっと覗くと、こんな絵が描かれていた。
・夜、怒鳴られて泣いている自分
・でも翌朝、お弁当がちゃんと置かれていたキッチン
その下には、はじめての“ことば”が添えられていた。
「たぶん、あれはごめんなさいだった」
絵と文字の交差。
それは、消された言葉たちが“別のかたち”で蘇る、静かな儀式だった。
ミカは、描き終えたページに、そっとこう書いた。
「わたしは、まだ言えない。
でも、いつか伝えられるように、ここに残しておく」
授業の終わり、先生がクラス全員に尋ねた。
「声に出さなくてもいい。
でも、誰か一人に“読んでほしい”と思ったら、そのページを開いて机の上に置いてください」
静かに時間が過ぎる中、ひとつ、またひとつと絵本が開かれていく。
声はなかった。拍手もなかった。
けれど、教室は満たされていた。
言葉が戻ってきたのではなく、“聞いてくれる誰か”が戻ってきたのだ。
ミカは、祖母への絵本を閉じて、こう思った。
言葉は、しまっていたところから出てくるんじゃない。
“誰かに渡したい”と思った瞬間に、生まれるのだ。
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