1-2 絵で語る授業
月曜の朝、ミカは教室の席に着くと、少しざわついた空気を感じた。
黒板には新しい紙が貼られていた。
『本日より、口頭による授業内容の伝達を一部停止します。代替手段:視覚表現・感情スケッチ・色符号記録』
担任の先生が入ってくると、笑顔で頷きながら、黒板に大きくこう書いた。
「今日から、“絵で伝える国語”を始めます」
クラスのあちこちから小さなざわめきが起こる。だがそれも、すぐに静かになった。
もう誰も、質問や反論を声に出して言えないのだった。
机の上にはスケッチブックとクレヨンの箱が配られた。
「“ありがとう”を絵で描いてみましょう」
先生の口元がそう動いたのを読み取って、ミカははっとした。
ありがとう。
今はもう、口に出すことも、正確に綴ることもできない。けれどその言葉の感覚だけは、まだ胸の奥に残っている気がした。
ミカはクレヨンを手に取り、迷わず描き始めた。
祖母が自分に差し出してくれた湯呑み。
ほんのり立ちのぼる湯気。
それを受け取る自分の手。
誰かが誰かに何かを渡し、受け取るその瞬間。
ミカは背景に太陽の光を描いた。やわらかい光の中で、湯呑みの器が、ゆっくりと輝いていた。
描き終えたとき、クラスメイトたちの絵を何気なく見渡した。
握手をしている手の絵。
ハートと笑顔が並んだカラフルな模様。
小さな動物が花を差し出しているシーン。
どの絵にも、言葉こそなかったが、“気持ち”ははっきりと伝わってきた。
先生がゆっくり歩きながら、それぞれの絵にうなずいたり、指差したりして反応を示す。その反応に、子どもたちはほんの少しだけ、嬉しそうな表情を浮かべていた。
言葉がなくても、人は何かを伝えることができる。
でも、その“何か”がどんな意味なのかは、描いた本人すらうまく説明できない。
ミカはふと、不安を覚えた。
これが永遠に続いたらどうなるのだろう。
思っていることを、いつか本当に誰にも伝えられなくなったら。
感情が、言葉にならないまま腐ってしまったら。
そのとき、ミカの絵の上に、そっと影が落ちた。
「きれいだね」
声だった。ちゃんとした、音としての声。
驚いて顔を上げると、斜め後ろの席の男子が、口をぱくぱくと動かしていた。だが、そこに声はなかった。ミカが“声”だと思ったのは、たぶん彼のまなざしだったのだ。
声にならない声を、ミカは“聞いた”気がした。
彼女は小さくうなずき、スケッチブックを差し出す。
その表紙に、そっと書いた。
「あなたの絵も、きっとすてき」
男子は照れたように頬をかき、にやりと笑った。
ミカも笑った。音のない笑いだったが、そこにはたしかに交流があった。
その日の授業の終わり。
先生が黒板に最後の課題を書いた。
「明日までに、“言えなかったこと”を絵にしてください」
教室が、ふっと静まり返った。
ミカはもう一度、スケッチブックを開いた。
そして、まだ誰にも伝えられていない、あの言葉の記憶を、心の奥から探し始めた。
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