教える、潜める
飯田華
教える、潜める
人に物を教えることが好きだった。
他人が抱える疑問符をじっと見つめて、丁寧に紐解いて、相手の望む答えを導き出すと、大抵の人は感謝の眼差しを送ってくれる。
達成感と信頼感。
その二つを同時に満たせることをお得だと思っていた。自他共に幸福となるこの行為を、私はとても気に入っていて。
けれど、最近は他の感情で手一杯だった。
シャーペンの先が紙面に擦れる音と、微かな呻き声が同時に響いていた。
午後四時二十分。窓から差し込む光は淡く、拡散していない。ノートと参考書が二冊ずつ置かれたローテーブルを穏やかに照らす日差しは、夏特有の鋭さを孕んでいる。
「うぐぐ…………」
でも、目の前の彼女の思考は拡散しまくっているようだった。
数学の参考書と睨めっこをし続けている彼女の瞳には、疲労の色が浮かんでいる。肩までの高さに切り揃えられた髪の先は少しほつれていて見るに堪えない。ため息ばかり吐き出される口はへの字に曲がっていた。
かわいい。
人の苦悶の表情をそんな風に形容するのは間違っているけど、つい邪な考えを抱いてしまう。
参考書の方に視線を向けるべきなのに、見つめる先が彼女に固定されて…………教えることを難しいと感じたのなんて、初めてだった。
今日の私は彼女に頼まれて、一日だけ家庭教師をしている。朝から晩までみっちり数Bについて指導をする約束だったけれど、実際のところあまり力になれてはいなかった。
見惚れていた時間が、長すぎたから。
「大丈夫?」
それでも勤めは果たしたいから、隙を見て彼女に声をかける。瞳ではなく紙面に、シャーペンが胡乱な軌跡をたどっているノートに視線を縫い付けたまま問いかけると、彼女はびっくりするほどの震え声で、「や、やっぱだめかも……」と独り言ちた。
朝からこんな調子だった。参考書に挑んで、負けて、私に助けを求めて、パッと顔が明るくなって、また沈んで。
カラコロと切り替わる表情の動きはジェットコースターを想起させて、見てみて全く飽きがこない。
揺さぶられた脳みそは、薄桃色に染まっていた。
「ここが分かんないんだけど、教えてもらっていい?」
「うん、いいよ。どこ?」
指差された図形を彼女と一緒に覗き込む。
彼女の顔が急に接近してきて、心臓が破裂しそうだった。
亀裂から血潮が噴き出ているんじゃないかと疑うくらい身体が熱くなって、クーラーが付いているのか分からなくなる。
「だいじょうぶ?」
今度は私の方が心配されてしまった。急に動きを止めたからだろうか、こちらを様子を窺う彼女の視線は不安そうだ。
「ううん、何でもない。ちょっと熱いなぁって思っただけ」
「え、クーラーの温度下げる?」
「いや、そこまでじゃないから気にしないで」
「ほんと?」
意味の分からないごまかし。彼女は怪訝な顔をしながらも納得したのか、「じゃあ、この問題も……」と参考書に指先を滑らせていく。
人に物を教えることが、今は苦手だ。
他人の疑問符どころではなくなって、心中こんがらがって、自分の望みにばかりピントが合う。
「あっ、そういうことか!」
納得の声を挙げた彼女が、こちらを見据える。
「ありがとっ!」
弾けた声色が、耳たぶをサッと撫でつけた。
目の前にいるただ一人だけに感謝されて、自分勝手に舞い上がる。
胸一杯に抱えた恋情をいつまで潜ませたままでいられるのか。
未来のことなんて、数学よりも分からない。
教える、潜める 飯田華 @karen_ida
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