1-6:だけど、今は、私のポケットにある

最終日、夜明け前。

誰も見ていないうちに、私は制服の上に防護服を着た。

供儀くぎの天使” のワッペンは剥がして捨てた。

縫い込まれた祈りには頼らない。


足音を立てないように、休息舎を出る。

都市の底は静かで、人工霧の粒が、灯りの中で舞っていた。

防護服を着ていても、夜の底は足が冷える。


炉へのルートはもう覚えた。

何度も見学で通った場所。

でも、今日はその手前で曲がる。

供儀観察ルートの白線を踏み越えて、ひび割れた金属床へ。


警告音は鳴らない。

ここには誰も観察に来ると思ってないから。


当然、ヴァイス=3の姿もない。

たぶんまだ休眠モードだ。

今、私は一人なのだ。


そう考えた時、少しだけ背中が熱くなった。

それは、換気孔の排熱のせいじゃなかった。


非常灯の明かりだけを頼りに、階段を降りていく。

どこかから、鉄を叩く音が響いていた。

単調で、乾いてて、正確で、重い。


時おりリズムがブレている。

機械の音じゃない。

人間が鳴らしてる音だった。


誰とも会わないまま、扉の並ぶ通路に来た。

ここから炉の深部に繋がってるのかな。

扉がひとつ、開いていた。

中から白い光と、冷たい空気が漏れている。


少しだけ深呼吸をして、足を踏み入れた。


部屋の奥に、一人の作業員がいた。

防護服は着ていない。部屋の中は安全なんだろうか。

少年だ。私と同じくらいの背格好の。

たぶん前に会った子だ。


少年は、壁に取り付けられた装置のパネルを拭いていた。

肩は細くて、動きは機械より遅い。

やけに丁寧でゆっくりとした手つきで工具をいじっている。

でも、止まらない。一定のリズムで、黙々と。


私の足音に気づいたのか、少年は手を止めて、こちらを見た。

部屋の中で防護服を着ているのが不思議に見えたのだろうか。


「……こんにちは」


声をかけたけど、返事はなかった。


でも今度は、目が合った。


はっきりと、こちらを見ていた。


私は何も言わずに、その場に座った。

鉄板の床が冷たい。

言葉を選んでるうちに、何も言えなくなった。


少年はまた作業を始めた。

背を向けて、同じ動作を繰り返す。


しばらくして、私は自分の持っていた記録ノートを開いた。

観察記録なんてもう関係ない。でも、何かを書きたくなった。

さっき少年が見ていた装置の形を描いてみた。

それから、少年の背中も。


自分の手が勝手に動いて、描いてる気がした。


そのとき、少年がこっちに何かを投げた。

ゆっくりした動作だった。


床に落ちたのは、ねじ。

手のひらより小さい、古いねじ。


私は、それを拾って、色んな角度から眺めた。

そして、絵を描いた。


描き終えてから、そのねじはポケットに入れた。

このねじは、壊れたどこかから落ちてきたものかもしれない。

あるいは、まだどこにも使われてない何かの一部。

だけど、今は、私のポケットにある。


何も話してない。

でも、なぜか、たしかに、

彼と対話できた。ような気がした。

……だから、ノートにはどんな言葉も書かなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る