推理小説
@Ai_to_personality
密室のアトリエと赤い絵の具 《前編》
雨は、朝から静かに降っていた。
人の声も車の音もほとんどしない住宅街の外れ。窓の外を濡らす細い滴の向こうで、パトカーの赤い灯だけが、淡く滲んでいた。
その家は、どこか周囲から浮いていた。古びた一軒家――だが、白い壁に無数の絵の具のしみが飛び散っているような、そんな家だった。画家・
「……で、どうして俺が呼ばれてるんだっけ?」
玄関前で傘をたたみながら、
「おまえ、昔ここの住人と何か因縁でもあったんじゃなかったか?」
「元記者だよ、俺は。今はただの物好きフリーライター。何もなければ、雨の日にアトリエなんか来るわけない。」
「じゃあ、興味本位ってやつか」
「……その通り」
神崎は足元を見た。ぬかるんだ地面の上に、警察の規制線が雑に張られている。その奥に、黒い布で覆われた何かが――死体があるのだ。
「で、密室って聞いたけど……本当に“密室”だったのか?」
「ああ。ドアは内側から鍵がかかっていた。窓もすべてロック済み、格子付き。侵入経路はなし。しかもな、妙なことが一つ」
「妙なこと?」
「部屋一面に、真っ赤な絵の具がぶちまけられてた。……血じゃない。絵の具だ」
神崎の目が一瞬だけ鋭くなった。
赤。それは時に、血よりも不気味に人の目を引く色になる。
「アートじゃないよ、これは。ただの目くらまし」
不意に、元気な声が背後から飛び込んできた。
振り返ると、明るい色のフード付きコートにジーンズ姿の若い女性が、足早に玄関をくぐってくる。レインブーツをはいた足元は泥だらけだったが、気にした様子は一切ない。
「ごめんごめん、遅れたー!でもすごいねこの現場、うわあ、まっかっかじゃん!」
「……やっぱり来たか、
「え、断る必要ある? 真壁さん、私のこともう常連扱いでしょ?」
にっこり笑って真壁に手を振る。警部補は手を振り返さずにため息をついた。
「で、この床。たぶん意図的にやってるよね」
柚希はしゃがみ込み、赤い絵の具を指で軽くなぞると、そのすぐ左にあった椅子に視線を向けた。「これ、元は違う場所にあったはず」
「なんでわかるんだ?」
「だって、このへんの絵の具が薄いもん。床に均一にぶちまけてるようで、実は違う。誰かが、家具をどかしてから撒いてる。……つまり、“偶然できた汚れ”じゃない」
神埼は感心したように目を細めた。「よく気づいたな」
「それだけじゃないよ。私、さっき外で通行人のおばあちゃんに聞いたの。昨夜の22時過ぎに、ここから誰か出て行くのを見たって」
「誰が?」
「“背の高い女性だった気がする”って。顔はよく見えなかったらしいけど、雨の中で傘もささずに走ってったって」
柚希は得意げに胸を張る。まるで“探知機”のように、周囲の人間から自然と情報を引き出すその才能は、神埼も一目置いている。
「まったく……行動力だけは一流だな」
「でしょ?」
しばらくして、アトリエの扉が再び開いた。
一人の男性が現れる。手には白いタオルを持ち、肩には軽くスーツを羽織っている。まるで、仕事帰りにそのまま立ち寄ったかのような風情だ。しかし、その顔にはどこか焦ったような表情が浮かんでいた。
「お待たせしました。私は、秋月草平の弟、
そう言って、男性はゆっくりと部屋に足を踏み入れた。
柚希が明るく手を挙げる。「おお、弟さん!ちょうどよかった、ちょっと話を聞かせてもらえませんか?」
拓真は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに肩をすくめる。「まぁ、何でもお答えしますが……」
透は無言で拓真を見つめた。
弟といっても、外見は兄の草平にかなり似ている。ただ、草平のような独特の神経質さや芸術家の気まぐれを感じさせる雰囲気はなく、むしろ穏やかな印象を与える。
「まずは、発見の状況を教えてもらえるかな?」透が尋ねると、拓真はしばらく黙った後、言葉を選ぶように語り始めた。
「今朝、7時過ぎにアトリエに来てみたんです。いつも通り、草平がいるはずだと思って。あの人、夜遅くまで仕事をしていることが多くて……」
神埼は、その言葉に首をかしげた。
「7時過ぎ?あの時間、草平さんは確実に死んでいたはずだけど、なぜその時間に来たんだ?」
拓真は一瞬、言葉を詰まらせた。
「え、ええ……それは、まぁ。ちょっと事情があって……実は、僕は昨夜遅くに電話で話していたんですよ、兄と。だから、気になって今朝来たんです」
透と柚希は目を合わせた。
「兄と昨夜電話していた?」透が再び口を開く。「それなら、なぜその話を最初に言わなかった?」
拓真は目をそらしながら、深いため息をついた。
「……実は、電話が最後だったんです。あ、いや、何でもありません」
彼は急に口をつぐみ、視線を床に落とした。
その瞬間、柚希は彼の肩に手を置いた。「あれ?兄と電話したのは、夜の22時過ぎじゃなかったですか?」
拓真はさらに顔を赤くした。
「え、あ……ああ、はい。それはそうですが……」
透はその言葉に何か違和感を覚えた。拓真の証言に明らかなずれがある。
そして、拓真が言葉を濁すタイミングと草平の死因が一致していないことに気づき始める。だが、それが何を意味するのか、まだ確信は持てなかった。
その場に張りつめた空気が流れた。拓真はますます小さくなり、ついには声を絞り出すように言った。
「それで、草平は……どこに?」
「草平さんは今、この部屋の中で発見された。死因は、首を絞められての絞殺だ」透が答えた。
拓真はその言葉を聞いて、まるで一瞬固まったようだった。
「絞殺?そんな、ありえない……」
拓真が目をそらし、口を閉ざす。その沈黙が、ますます部屋の空気を重くする。
透はじっと拓真を見つめた。彼の態度は、言葉の裏に何か隠していることを示唆していた。だが、証拠がなければ、ただの直感でしかない。
「拓真さん」透が冷静に口を開く。「もう一度、昨夜の話をしてくれませんか?」
拓真は言葉を詰まらせ、視線を床に落とす。
「どうして、そんなことを……」
「草平さんが死んだ時間はまだ確定していないが、あなたが言った22時過ぎが一つの鍵になる。なぜその時間に電話をかけたのか、教えてほしい」
拓真はひと呼吸おいてから、やっと口を開いた。
「……昨夜、草平が何か気にしている様子だったから。心配になって、電話をかけたんです」
「何を気にしていたんですか?」
「それは…何でもありません」拓真は再び言葉を濁す。
その時、部屋のドアが再び開いた。
「ちょっと待った」
元気な声が響く。振り向くと、長身の男性がひょっこり顔を出した。
「おや、また上原さんか」透は少し驚きながらも肩をすくめた。
「なんだ、あんたがいたのか。無駄に騒いでるなぁ」
男性が軽い調子で言うと、上原柚希はにっこり笑った。
「無駄じゃないもん!それに、透が無理して硬くなっちゃって、ちょっとリラックスさせたほうがいいんじゃない?」
「……確かに」透は小さくうなずきながら、無言で拓真を見つめた。
その男性は、淡い色のスーツにネクタイをきちんと締めていたが、やや乱れた髪と緊張した表情が、まるで予定外の事態に対応しているかのような印象を与える。
「お久しぶりです。真壁警部補から紹介を受けた、
彼は一礼し、さらに口を開いた。
「拓真さんが言っている通り、昨夜のことに関しては、草平さんが何か悩んでいる様子だったことは私も知ってます。電話をかけたのは、僕もその場に立ち会っていたから。事実です」
透は目を見張った。
「吉村さん、あなたも昨夜一緒にいたんですね」
吉村は無言でうなずいた。「そうです。昨夜、草平さんと一緒に話をした後、私は一度帰宅しました。それからすぐに電話がかかってきて、草平さんから、ちょっとした確認をしたいことがあると言われて、また戻ったんです」
「戻った?」透は眉をひそめた。「どこに?」
「このアトリエですよ」吉村は少し困惑気味に答える。「草平さんが言うには、どうしても気になる点があって、僕に確認してほしいことがある、ということだったんです」
「それで、何を確認したかったのですか?」
吉村は少し黙った後、視線を泳がせた。「それについては、僕も詳しくは聞いていません。草平さんが部屋に戻ってから、急に気が変わったみたいで、確認したいのはもっと後のことだったのかもしれません」
透はその不安定な証言に、またもや疑念が湧く。
拓真の証言といい、吉村の証言といい、二人とも共通しているのは曖昧な記憶と、誤魔化したような言動だ。
「ふむ…なるほど」透はじっと二人の表情を観察しながら、ゆっくりと言った。「とにかく、昨日の電話の内容をもう一度調べさせてもらいたい。もし、何か気づいたことがあれば、教えてほしい」
吉村と拓真は互いに目を合わせるが、何も言わず、ただ静かにうなずいた。
透は静かに部屋を見渡し、考え込むような仕草を見せた。拓真と吉村の証言には明らかな食い違いがある。それが今後、事件の解明にどんな影響を与えるのか、まだ確信は持てないが、確実に何かが隠されていると感じていた。
「もう少し情報を整理したほうがいいんじゃない?」
透は軽くうなずき、少し顔を上げた。
「それにしても、拓真さんと吉村さん、だいぶあやふやな証言ばかりしてるね」柚希は言った。
「それが疑問なんだ。どちらかが嘘をついているか、どちらも知らないことが多すぎる」透は声をひそめた。
拓真は顔をしかめ、言い訳を始めようとしたが、透は手を挙げてそれを止めた。「待て、今は何も言わなくていい」
透は改めて部屋の中を見回す。やはり、アトリエ内の物の配置や草平の最後の作業が気になる。壁には途中で描かれた未完成の絵が掛けられており、机の上には絵具の道具が散乱していた。だが、一番目を引いたのは、中央に置かれた赤い絵具のこぼれた跡だった。
「見てくれ、あの絵具の跡。どう考えても、何かがおかしい」透はひときわ目を引いたその場所を指差す。
拓真と吉村はその指摘に反応しなかったが、柚希はすぐに近づいてその絵具跡をじっくりと見た。
「確かにおかしいよね。赤い絵具がまるで血みたいに散らばっているけど、どうしてこんなに広がっているんだろう」柚希は首をかしげた。
透はゆっくりと歩み寄り、絵具の跡に目を凝らす。
「これは、草平が描いた絵具の跡じゃない。どう考えても、倒れた後に絵具を踏んだか、何かに引っかかって広がったとしか思えない」
その言葉に、拓真が顔をしかめる。「それは……」
「もしそうだとすれば、草平が絵を描きかけていた時、誰かがこの部屋に入った可能性がある」透が言い切った。
「でも、それならなぜ絵具がこんなに散らばっているんだ?」吉村が反論した。
その時、部屋の隅から何かがガタリと音を立てた。
「ん?」透は反応して振り返る。部屋の隅には、先ほどから気になっていた古びた木箱がひとつ置かれていた。それに気づいたのは、柚希だった。
「ちょっと待って、あの箱は何だろう?」
「え?」透はその声に引き寄せられるように、足を踏み出した。箱に近づくと、箱の中に何かが見え隠れしている。
透が箱を開けると、その中には一見、普通の古い絵具や画材が入っていた。しかし、その中にひときわ目を引くものがあった。
小さなメモ用紙。
「これは…」透がメモを取り出し、軽く見た。そこには何かの暗号のような文字が書かれていた。
「これ…草平が書いたのか?」透が思わずつぶやく。
その瞬間、拓真が顔を歪めた。「それは…知らない。草平が何かを隠していたのかもしれませんが」
透はその言葉を聞き、やっと気づいた。拓真の表情がどこか不自然だということに。
「そうだ、拓真さん。あなたが兄にかけた電話の内容、覚えていますよね?」透の声が冷たく響く。
拓真は目を逸らし、口を固く閉ざす。
「今からでも遅くない。素直に話してください。」透の言葉には迫力があった。
拓真はしばらく沈黙していたが、やがて重い口を開いた。
「実は、兄には…」拓真は深いため息をつき、言葉を続けた。
「兄は、誰かに脅されていたんです。その脅迫の内容が、この絵に関係しているのかもしれません」
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