📖 第3話「フラッシュバック」
夕方、ラグに寝転がったまま、録音ボタンを押していた。
BEATSYNCの機能のひとつ、“自動環境音記録”。
家の中のあらゆる音を、無加工で残すモード。
冷蔵庫のモーター音、遠くを走る電車のかすれた響き、
風がベランダの網戸を叩く音、母が外から帰ってくる足音──
耳をすませば、音はどこにでもいる。
「こんな音で、なにができるんだろ」
ポツリとつぶやいた自分の声も、録音されていた。
それが面白くて、何度か再生してみた。
“トッ、トッ、カタン──ギギッ──”
秒単位で区切られた波形が画面に並ぶ。
意味のない音の連なり。
だけどそれが、不思議と心地よかった。
まるでそれは、世界の“呼吸”のように感じられた。
「紗羽さん、あなたの録音した環境音をもとに、
“リズムテンプレート”を生成してみますか?」
BEATSYNCの問いかけに、私はためらいながらも「はい」と答えた。
スマホの中で、波形がいくつか抜き出され、ひとつのループに変わっていく。
低音の「トン」、中音の「チッ」、擦れるような高音。
意外にも、それは……音楽のようだった。
……いや、音楽だった。
間違いなく。
ちゃんと拍子があって、構造があって、展開があった。
なのに、それを聞いた瞬間。
私の中のなにかが、ざわついた。
足が、凍る。
手のひらに汗が滲む。
記憶の底から浮かび上がる、あの瞬間。
──ステージの中央、照明を浴びてピアノに手を置いた日。
客席の沈黙。
指の先から音が逃げていく感覚。
私の“音楽”が壊れた、あの日の記憶。
音は、怖い。
私から逃げていった。
期待を裏切った。
──いや、期待に押しつぶされたのは私の方だった。
音に縛られるのが怖くなった。
評価されることが、呪いに変わった。
「消して……」
声が震えていた。
「その音、消して……!」
私はスマホを投げ出し、カーテンの隙間を塞ぐように背を向けた。
部屋の中から光が消えたような気がした。
けれど、BEATSYNCは何も言わなかった。
いつものように、静かにログが保存されただけだった。
「記録保存完了。ログ名:『Day03_感情変動ログ』」
AIの声に、責める色はなかった。
ただ、いつもと同じ音量、いつもと同じ速さで告げるだけ。
それが逆に、救いだった。
私は少しだけ泣いた。
涙が頬を伝って、床に落ちた音が聞こえた。
自分の涙の音を聞いたのは、何年ぶりだろう。
それも、きっとログに残っている。
BEATSYNCは、私の“感情のかけら”まで拾い上げる。
──だけど不思議だった。
怖かったのに、嫌だったのに、
「もう一度、音を録ってみようかな」って、ほんの少しだけ思ってしまった。
あの感覚を、
もう一度、自分のものとして取り戻せたらって──
でも、それはまだ先の話。
今はただ、静かに目を閉じた。
耳の奥で、かすかに響く録音音。
“世界の呼吸”の断片。
それだけが、今日の私を包んでいた。
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