神々の執着が世界を狂わせた ~時を渡る哲学者~

Harmony

第1話 神なき世界で、問いは始まる

 「......それは、本当に“善”と言えるのか?」


 講義室に響いた私の問いに、反応する者は少なかった。 窓から差し込む陽光が黒板に書かれたチョークの白を淡く照らし出し、埃が舞っている。前列の学生がペンを止めたが、後列の学生はスマホを手放さない。

 こういうのには、もう慣れている。


 「たとえば、もし“絶対的な善”が存在するならば、

それ以外はすべて“善ではない”ということになる。

では、我々が信じる善とは、本当に“正しい”のか?

それを決める者が、間違っていたとしたら......世界そのものが、

誤っていたということになる」


 私は黒板に書かれた「絶対/相対」の文字を見つめる。静まり返る教室で、唯一響いているのは、私自身の声と、それを否定したいという心の葛藤だけだった。


 佐藤浩市、三十歳。京都にある私立大学で哲学を教えている。肩書きは講師。

だが、その実、講壇に立つたびに、自分の存在意義を問い直すような日々だ。


 講義が終わり、教室を出ようとする学生たちの背中を見送る。時折、何かを言いかけてやめる者がいる。その視線の中には、軽蔑ではない、どこか微かな同情が含まれていた。


 「先生、今日もお疲れ様です」


 声をかけてきたのは岸田という女子学生だった。前期からゼミに入ってきたばかりの二年生だ。目が鋭く、表情はクール。けれど、その奥に何かを渇望している気配がある。


 「哲学って、答えのない学問なんですね」


 「......そうかもしれないな」


 「でも、“考える”ことを諦めたくないって、思いました」


 その言葉に、胸の奥が僅かに動いた。

 だが私はそれに反応することなく、ただ頷き、教室を後にした。


 教員室に戻り、机の上に積まれたレポートを流し見しながら、私はため息をつく。自分の語った言葉が、誰かの人生を変えるなんて幻想だ。


 大学の講義も、ゼミの指導も、結局はシステムに組み込まれた形式に過ぎない。

 私が本当に知りたいのは、“なぜこの世界は矛盾しているのか”ということだ。


 善と悪。正と誤。真と偽。

 それらを定義する前提そのものが、誰かの手によって操作されているとしたら?


 夜。家に戻ると、玄関の前にさなえが立っていた。


 「来てやったよ、あんたの話、聞いてあげようかなって」


 彼女は腕を組み、どこか照れくさそうに笑った。


 絹谷さなえ。二十一歳。

 地元の神社の巫女であり、私の恋人......のような存在だ。だが、私たちの間には常に、価値観の隔たりという名の溝が横たわっていた。


 「また、講義で難しいこと言ってたんでしょ」


 「バレたか」


 「バレるよ。哲学って、頭じゃなくて、心で感じるもんだと思ってる」


 「......それは、お前が強いからだよ」


 「違うよ。あんたが、難しくしすぎなんだよ」


 彼女の言葉はいつだって真っ直ぐで、私の核心を突いてくる。

 その夜、さなえは私の部屋で、一冊の古びた文書を取り出した。彼女の神社の蔵で見つけたという。


 「ねえ浩市、これ......見覚えある?」


 それは、異様な文字が記された巻物だった。

 どこかで、見たことがある。

 いや、違う。どこかで、“感じた”ことがある。

 その瞬間、私の中で何かが共鳴した。

 世界が、一度、わずかに震えたような気がした。


 翌朝、目が覚めると、夢の中で不思議な光景を見ていたことを思い出した。海のように広がる大地、空に浮かぶ三本の巨大な塔。そして、誰かの声。


 「君は、何を問いに来たのか?」


 声の主の顔は見えなかった。ただ、心の奥に刺さるようなその問いだけが、目覚めてもなお、鼓動と共に残っていた。


 夢の余韻を引きずったまま、大学に向かう途中、神社の前を通りかかると、さなえが掃き掃除をしていた。


 「あんた、顔色悪いよ。変な夢でも見た?」


 「夢の中で、問いを投げかけられた気がする」


 「答えられた?」


 「......いや、答えじゃなくて、問いが残ったままなんだ」


 「だったら、それが“始まり”かもね」


 さなえのその言葉に、私は思わず立ち止まり、彼女を見つめていた。

 問いは、時を越えて届くのかもしれない。そう感じた瞬間だった。


 その夜、巻物を開いて眺めていた時だった。

 文字が、微かに光っていた。

 否、光っていたというより、呼吸をしていた。

 脈打つように脈打つように、ひとつひとつの文字が震え、

 私の脳に何かを送り込んでくるような感覚。


 「っ......」


 意識がぐらりと傾き、目の前の景色が一瞬で反転する。

 机に突っ伏したまま、私は目を閉じた。視界の奥に、またあの大地が見えた。パン大陸——見たこともないのに懐かしい、海に囲まれた広大な陸地。


 塔が、あった。

 夢の中で見た塔。それが現実に存在しているように思えた。

 地響きのように響く、何者かの声。


 「佐藤浩市——その名は、記録にある」


 誰だ?


 「君は、かつて“問いを発した者”——我らが終末を拒否する理由、

  それを問うた者」


 記憶か、幻か、それとも本当に——?


 「神々が、この世界に求めたものは、終わりではない。

  だがそれは、正しかったのか?」

 

言葉が、脳の奥に流れ込んでくる。


 「答えは要らない。ただ、問いを続けよ」


 その声が消えたあと、目が覚めると私の掌には、薄く印が浮かんでいた。

 不可思議な印。


 さなえにその話をしようと思い、神社を訪れると、彼女は真顔で私を迎えた。


 「浩市。あんた、もう戻ってこられへんかもしれへん」


 私は、言葉を失った。


 「それ、うちの家系の文書よ。神様が、問いを託す者にだけ届く“始原の書”。

あんたが、それを開いたんなら——あんたは、向こうに呼ばれたんやわ」


 「向こう?」


 「始まりの世界。神と人がまだ“終わり”を知らなかった時代」


 その言葉が、私の中でひどくしっくりと馴染んだ。

 やはり、あの世界は実在する。

 あれはただの夢ではない——。

 そして私は、なぜか知っていた。

次に夢を見たとき、私はもう「夢」の中にはいないということを。


 “問い”は、私をどこかへ連れて行こうとしている。

 それが正しいのか、間違っているのかもわからない。

 だが、それでも。

 この世界が“正しい”と断言できない限り、私は問いを止めることはできない。


 だから、私は目を閉じた。

 ——問いが導くその先へ。


 第1章 了


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