泡になった星の子
パンシャン先生
第1話 落ちてきたもの
あの日、海は静かに泡立っていた。
風もないのに、波が音を立てて崩れていく。
まるで、何かが“海の上に落ちてきた”後のように。
その朝、ミユは誰にも言わずに学校をさぼった。
夏の終わりの匂いが、制服の袖に染みついているような気がして、それが嫌だった。
空はよく晴れていた。遠くの入道雲だけが、季節に取り残されている。
誰にも見つからないように、防波堤の奥を歩いて、
小さな岩場の突端にある、半ば崩れかけた古い見張り台に登る。
そこは、子どもの頃からのお気に入りの場所だった。
誰もいない、小さな海の上。
風の音と波の音だけが、ぐるぐると回っている。
けれどその日は――違っていた。
潮風に混じって、何か異質な気配がした。
においも、音も、形もはっきりしない。
けれど確かに、“違うもの”がそこにあった。
それは視界の端で、泡のようにふわふわと揺れていて、
ミユが視線を向けたときには、もう岩場の先端に“それ”が座っていた。
人影だった。
小さな男の子のように見えた。
でも――その姿は、どこか“正しくなかった”。
輪郭が、ぼやけている。
髪の先や指先が、ふわふわと泡のようにゆれている。
服の色も、目の色も、何かの中途半端な記憶みたいに曖昧だ。
(なに、この子……)
声をかけようとして、息を呑んだ。
近づけば、泡になって消えてしまいそうだった。
風に触れれば、こぼれ落ちてしまいそうだった。
けれど、“その子”は、こちらを見ていた。
目が合った。たしかに、目が合った。
言葉はなかった。
けれど、何かが胸の奥にふっと落ちてきた。
それは、“わたしだけが見えてしまったもの”という直感だった。
(この子は――ここに、いない)
でも、そこにいた。
確かにそこにいて、波の音と風のなかに混じっていた。
そして、気がついたときにはもう、その姿は消えていた。
波がひとつ、高く砕けたあと。
泡が散ったあと。
岩場の先には、誰の姿も残っていなかった。
けれど――
その場所に、濡れた足跡がひとつだけ、残されていた。
***
その子のことを、誰にも話していない。
話そうと思った瞬間は、何度かあった。
けれど口を開きかけるたびに、言葉が舌の上でほどけて消えてしまう。
自分でも、それを「現実」と呼んでいいのか分からなかったからだ。
ミユは昼前に家へ帰った。
母は出勤していて、家には誰もいなかった。
リビングの時計が、いつもより静かに針を進めている気がした。
濡れた足跡のことを思い出す。
見張り台の上に、たしかに残っていたそれ。
乾いたコンクリートに水跡が残るのは、そんなに長くない。
けれど帰るまでのあいだ、ずっとそれが脳裏に焼きついていた。
あの子はたしかに、そこにいた。
声はなかった。でも、存在はたしかだった。
風に触れるような、かすかな気配があった。
(あの子は、どこから来たんだろう)
ベッドに倒れこむと、目の奥がじんわり痛んだ。
潮のにおいが、髪にうっすら残っている。
それを感じるたびに、泡の子が視界のすみにちらつく。
言葉にならない何かが、胸の奥でうずまいていた。
夕方、母が帰宅した。
買い物袋を下ろしながら「今日、ちゃんと行った?」と訊かれた。
ミユは頷いた。母は深く詮索しない。
その代わり、嘘に対しても無関心だった。
父は単身赴任で、家にはいない。
兄は進学で都会に出て、もう何年も戻ってきていない。
ミユと母の二人暮らしは、淡々としていた。
夕飯のあと、ミユは海辺の小道をひとりで歩いた。
風が吹いている。髪が頬にかかって、くすぐったい。
足元の砂利が、きしりと鳴いた。
灯台の裏手に出ると、昨日と同じように海が広がっていた。
波が繰り返し寄せては返す。
けれど昨日見た“あの子”の姿は、どこにもなかった。
“ここには、誰もいない”。
その現実を、ちゃんと受け入れるべきだと思った。
でも、どうしても“何かが残っている”気がした。
帰ろうと背を向けたとき。
ふと、足元に小さな光が見えた。
波打ち際の岩の間に、白い何かがきらりと光った。
しゃがんで拾い上げる。
それは、小さな貝殻だった。けれど――
内側が、どこか見たこともないほど透明だった。
まるで、泡が固まったみたいに、儚くて淡い。
ミユはその貝殻を、ポケットにしまった。
夜が来る。風が冷たくなる。
けれど胸の中に、ふわりと灯るものがあった。
(明日、また行ってみよう)
そのとき、自分が“誰かを待っている”ということに気づいた。
言葉にしてしまえば壊れてしまいそうな、淡い泡のような気持ち。
誰にも話していない。
けれど、たしかに――“その子”を、探していた。
***
次の日も、ミユは学校を抜け出して見張り台に向かった。
二日連続でさぼることに、ためらいがなかったわけではない。
けれど胸のどこかで――どうしても“そこへ行かなければ”と思っていた。
潮風のにおいは昨日よりも濃く、
海は昨日よりも静かだった。
見張り台の階段をゆっくりと登る。
海の音だけが耳に届く。空はどこまでも青い。
そして――彼は、いた。
見張り台の先端。
昨日と同じ岩の上に、膝を抱えて座っていた。
泡のような髪と、輪郭の曖昧な肩。
目だけが、はっきりと、こちらを見ていた。
ミユは言葉を失って立ちすくんだ。
確かに、いた。
昨日の記憶が幻ではなかったという安堵と、
それでも“どうして存在してしまっているのか”という戸惑いが交錯する。
風が吹く。彼の髪が、ゆるやかに揺れる。
光がそこを透かして通り抜けていった。
ミユはゆっくりと歩み寄った。
少し近づいても、彼は逃げなかった。
目だけは、ずっとこちらを見ていた。
「……こんにちは」
声をかけてみた。
けれど返事はなかった。
首も、手も、動かない。
ただ、その瞳だけが――波のように揺れていた。
「昨日、ここにいたよね。足跡、残ってた」
やっぱり返事はない。けれど、否定の気配もない。
彼は、ミユの言葉をちゃんと“聴いている”気がした。
(言葉は、返ってこない。でも――通じてる?)
ミユはそっと、自分のポケットに手を差し入れた。
昨日拾った、小さな貝殻。
泡のように透明で、うっすら青みがかっている。
それを取り出して、そっと彼の前に差し出す。
「これ……落としていった?」
彼の目が、一瞬だけ、貝殻を追った。
それから、ふたたびミユの目を見つめる。
まるで「ありがとう」と言っているようだった。
彼は、それだけの動きで――“受け取った”ことを示していた。
ミユは彼の隣に腰を下ろした。
ふたりのあいだには、少しだけ空気のすきまがあった。
それは、風が通り抜けるための余白だった。
しばらくのあいだ、何も話さなかった。
話すべきことがあるのかどうかさえ、わからなかった。
でも、それでよかった。
言葉がなくても、この時間は“存在していた”。
やがて、彼が立ち上がった。
膝をゆっくりと伸ばし、見張り台の先端まで歩いていく。
ミユが立ち上がろうとしたそのとき――
彼が振り返って、手を伸ばしていた。
風に浮かぶような、その仕草。
言葉の代わりに差し出された手。
ミユは驚きながらも、そっとその手を取った。
少し、冷たかった。けれど――あたたかさも、感じた。
ふたりは、並んで海を見た。
泡のような光が、波の上にちらちらと浮かんでいる。
それは陽光が反射しているのか、彼の存在のかけらなのか、判別できなかった。
風が吹いた。
潮のにおいが、ふたりのあいだをすり抜けていく。
言葉はなくても、たしかに“なにか”が通いはじめていた。
彼が指先で空を指した。
ミユもその方向を見上げた。
空には、白く小さな月が浮かんでいた。
昼間の月。そこに理由はない。
けれど、彼はそれを“見せたかった”のだと、なぜか思えた。
ミユはそっと、呟いた。
「あなたは――どこから、来たの?」
返事はなかった。けれどその問いは、
たしかにこの空気のどこかに残された気がした。
***
その日から、ミユは毎日、見張り台に通うようになった。
学校が終わってから、あるいは授業を抜け出して、海へ向かう。
誰にも告げずに、誰にも見つからずに。
それは“秘密の時間”だった。
彼は、毎日そこにいた。
泡のような存在感で、でも確かにそこにいた。
言葉はなく、声もない。
けれどミユには、彼の存在がいちばん確かなものに思えた。
誰かに話す気はなかった。
話したところで、きっと信じてもらえないとわかっていた。
母に話しても、「そういう本を読んでるのね」と軽く流されるだけだろう。
でもそれでよかった。
この時間は、自分と“あの子”だけのものだったから。
ただ、ミユの中にはひとつだけ、ずっとひっかかっていることがあった。
――彼には、名前がない。
会話がないから名乗ることもない。
けれど彼のことを考えるたびに、“なんて呼んでいいか分からない”ことが、
少しずつ胸の奥で重くなっていた。
名前がないということは、居場所がないということ。
呼ぶ言葉がなければ、心の中で繋ぎとめておくこともできない。
ミユは、彼に名前をつけることにした。
その日の夕方、見張り台には彼がいた。
風に吹かれながら、海を眺めている。
空は少しずつ色を変えていて、遠くには茜のにおいが漂い始めていた。
ミユは隣に座り、ポケットから取り出した貝殻を見せた。
拾ったあの日から、ずっと持ち歩いているそれは、
光にかざすと今でも中に小さな星が浮かんでいるように見える。
「これ、あなたが落としていったものだって、やっぱり思うの」
彼は、目を細めてその貝殻を見た。
やわらかく、受け止めるような目。
ミユは、ぽつりと続けた。
「あなたの名前……“ユウ”って呼んでいい?」
彼の瞳が、少しだけ揺れた。
反応があった。
それは頷きでも、笑顔でもなかったけれど――
ミユには、たしかに“それでいい”という気配が伝わった。
「ユウ。……“夕方の空”みたいな名前。
静かで、どこか寂しくて、でも綺麗。
あなたって、そういう感じがするから」
ユウは、空を見上げた。
その視線の先には、雲のあいだから少しだけ覗く、淡い月。
ミユは、それを見て微笑んだ。
“ユウ”という名前は、しっくりと彼に馴染んでいた。
泡のように儚いのに、そこに確かにある――そんな存在にぴったりだった。
その日から、ミユは彼のことを“ユウ”と呼ぶようになった。
心の中でも、口に出しても。
名前を持つことで、ユウは“誰か”になった。
ミユにとって、それはとても大きな変化だった。
ユウはまだ言葉を話さない。
けれど彼の仕草や視線や、時折の静かな反応は、
名前を持ったことで、いっそう意味を持ちはじめた。
その夜、ミユは夢を見た。
泡のなかで、ユウがこちらを見ていた。
言葉ではなく、光で何かを伝えていた。
けれど目覚めたとき、その内容はほとんど思い出せなかった。
残っていたのは、名前だけだった。
――ユウ。
ミユがつけた、最初の“語りかけ”。
***
ユウに名前をつけてから、何かが変わった気がしていた。
ミユの中で、彼は“あの子”ではなく“ユウ”になった。
名前の重みが、存在に輪郭を与える。
言葉のない関係に、はじめて音が宿ったようだった。
けれど、その変化が、同時に小さな違和感を運んできたのも事実だった。
放課後、見張り台へ向かう途中で、ミユは偶然近所の郵便配達の人とすれ違った。
彼は見張り台のほうをちらりと見やりながらも、そのまま通り過ぎていった。
そのとき、ユウは見張り台の柵に腰掛けていた。
風に髪をなびかせながら、こちらを待つように、じっと。
でも――配達の人は、ユウの存在にまったく気づいていなかった。
普通なら「あそこに子どもがいる」とでも思って、少しくらい見ていくはずなのに。
ミユは思った。
(……見えていない?)
その疑問は、すぐに自分の中で否定された。
いや、そんなはずない。ユウは、ここにいる。ちゃんと。
けれど、それはほんの始まりだった。
別の日。
波打ち際で猫が一匹、ユウのすぐそばを歩いた。
ユウはじっとしゃがんでいて、猫に気づいていなかった。
けれど猫のほうも、ユウの存在にまったく反応しなかった。
身体が触れそうな距離をすり抜けていっても、
まるでそこに何もないかのように、まっすぐ砂を踏んでいった。
(……やっぱり、何か、おかしい)
さらにその数日後。
ミユはユウが佇んでいる様子を、スマートフォンで写真に撮ろうとしてみた。
こっそりと。彼に気づかれないように、指先だけでシャッターを押した。
けれど、画面に映っていたのは――海と空と、白くにじんだ風景だけだった。
そこにいたはずのユウは、写っていなかった。
ミユは、スマホを見つめたまま、しばらく言葉が出なかった。
(ユウは……私にしか、見えてないのかもしれない)
その考えがはじめて、しっかりと形を持った。
ただの違和感ではなく、思考として、輪郭を持ってしまった。
でも――それでも。
ミユはスマホをしまい、ユウのそばへ歩いていった。
ユウは、何も言わずにこちらを見ていた。
泡のようにかすかに揺れる輪郭。
それでも、確かにそこに“いる”という感じ。
「……ごめん、変なこと考えた」
ミユはそう言った。
ユウは首をかしげた。それが何の意味を持っていたのかは、わからない。
でも、彼がそこにいることだけは、信じられた。
誰かに見えないとしても。
触れられないとしても。
写真に写らなくても。
それでも、“ここにいる”と感じること――
それは、自分にとって“ほんとう”だと思えた。
ユウは、ふと空を見上げた。
視線の先には、白く淡い雲が浮かんでいた。
その雲のかたちが、どこか“泡”に似ていると思った。
***
ユウが「自分にしか見えないかもしれない存在」であることを、
ミユは、もう否定しなくなっていた。
認めたわけでもない。けれど、心のどこかで、すでに受け入れていた。
それは、日常の中に静かに染み込んでくる感覚だった。
夢かもしれない、幻かもしれない。
でも――ふたりで過ごす時間は、たしかに“あった”。
雨が降った日、ミユはいつものように見張り台へ向かった。
傘を差し、制服の裾を濡らしながら、崩れかけた階段を登る。
そこに、ユウはいた。
濡れていなかった。
というより、“濡れている”という概念そのものが、彼にはないようだった。
風が吹いても、雨が降っても、彼の姿はにじまない。
泡のようにふわふわと揺れるだけで、形が崩れることはなかった。
ミユは隣に座った。
傘をそっと傾けて、ユウのほうに差し出した。
彼は少しだけ目を細めて、それを見た。
そして、いつものように小さく頷いた――ように見えた。
ふたりのあいだに、雨音が降りてきた。
コンクリートを打つ音、遠くで車のタイヤが水をはねる音。
そのすべてが、ふたりだけの空間をやさしく包んでいた。
「……ねえ、ユウ」
ミユは、ぽつりと声を出した。
ユウは顔をこちらに向けた。
「わたし、こうしてる時間が、すごく好き」
言ってしまってから、少しだけ恥ずかしくなった。
でも、取り消したいとは思わなかった。
ユウは、ゆっくりと空を見上げた。
雨粒が、その瞳の中を通り抜けていくようだった。
「誰にも話してないよ。ユウのこと。
でも、それでいいって思えるようになった」
ユウは、静かに目を閉じた。
その仕草は、まるで“ありがとう”と言っているように見えた。
雨の中で過ごす時間は、いつもよりゆっくりと流れていた。
ミユは自分の膝に手を置きながら、ぽつりと続けた。
「でも、ちょっとだけ怖いことがあるの。
……いつか、この時間が終わるんじゃないかって」
ユウは何も言わなかった。
けれどその沈黙が、なぜか“否定”ではなく“共感”のように感じられた。
雨がやんだ。
空の向こうに、わずかに光が差し込んでいた。
ふたりは立ち上がり、波打ち際まで歩いた。
ユウの足跡は、やっぱり砂の上に残らなかった。
でも、ミユは何も言わなかった。
そういうものなのだと、もうわかっていたから。
ふたりだけの時間は、誰にも知られない。
けれど、それはたしかにここにあった。
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