Apyss

ナナシノゴンベエ

第1話:深き森にて

 蒼月の森は、まるで時間が止まったかのような静寂に包まれていた。古木の枝葉が幾重にも重なり、陽光は細い糸のように地面に差し込む。木々の間を抜ける風が、かすかに葉擦れの音を響かせ、遠くで名も知れぬ鳥の囀りがこだまする。地面には苔が厚く広がり、足を踏み入れるたびに湿った感触が革靴越しに伝わってきた。森の空気はひんやりと重く、どこか魔法の残滓のような気配が漂っている。


 森の奥へと続く獣道を並んで歩く2人の人影。一方は透き通るような白い肌と透明感のある青い髪の長身の女性。彼女の名はアピス。背中には旅の為に必要な物を入れてあるであろう大きめのリュックを背負い、右手には彼女の背丈より少し長めで、両端に鉄環の付いた棍を持っている。もう一方の人影は対称的に小さく、まだあどけなさの残る褐色の少女だった。


「エリス、疲れてはいないかい?」

「うん、全然!私は大丈夫だよ、おねえちゃん」

 気遣うアピスに少女は可憐に返す。道は細く、両脇を覆う灌木が時折二人の服を掠める。アピスの棍の先端が歩くたびに地面を軽く叩き、トン、トンという音が一定のリズムを刻んでいた。一方、エリスの小さな体は軽やかに歩を進め、尖った耳が周囲の音を拾うように微かに動いている。


「でもおねえちゃん、この森……なんだか変な感じがする」

 エリスの声は控えめで、どこか探るような響きがあった。彼女は立ち止まり、周囲を見回した。亜人種の鋭い聴覚が、森のざわめきの中に何か異質なものを感じ取ったのかもしれない。


 アピスは一瞬足を止め、エリスを振り返った。彼女の口元には柔らかな笑みが浮かんでいるが、その目は森の奥を見据え、警戒を緩めていない。

「ふむ、そうだね。この蒼月の森は古の魔法が残る場所だとか。何かの気配が濃くてもおかしくはないよ」

 アピスの声は穏やかだった。彼女は棍を軽く握り直し、視線を再び前へ戻す。彼女の言葉には、好奇心と冷静さが同居している。


 二人は旅の途中、この森を通り抜けて次の町へ向かっていた。森の奥から、微かに水の流れる音が聞こえてくる。どこかで小川が流れているのだろう。木々の間から漏れる光が、時折二人の影を長く地面に映し出した。だが、その静かな時間が長く続くことはなかった。


 エリスの耳がピクリと動き、彼女の表情が一瞬で硬くなった。

「おねえちゃん、気をつけて。何かいる…」

 彼女の声は低く、緊張を帯びていた。鞘からナイフを抜いて静かに構え、姿勢を低くする。彼女の体はまるで弦のように張り詰めていた。


 その瞬間、茂みがガサリと激しく揺れ、魔狼が飛び出してきた。灰色の毛皮に覆われたその獣は、背丈がエリスの倍近くあり、赤く光る目が二人を睨みつける。鋭い牙から滴る唾液が地面に落ち、ジュッと小さな煙を上げた。魔狼の咆哮が森に響き、鳥たちが一斉に飛び立つ音が辺りを包む。木々の葉が震え、まるで森全体がその存在に怯えているかのようだった。


「エリス、左右に散るよ」

 アピスが冷静に指示を出す。棍を構え、魔狼の動きを一瞬で捉えた。エリスは小さく頷き、ナイフを握り直して横に跳んだ。彼女の動きは風のように軽やかだった。


 魔狼が咆哮し、アピスめがけて突進してきた。地面を蹴るその足音は重く、ゴッ、ゴッと土を抉る音が響く。アピスは一瞬たりとも目を逸らさず、魔狼の爪が振り下ろされる瞬間、体を僅かに傾けて攻撃をかわした。彼女の棍が一閃し、一撃が魔狼の脇腹を的確に捉える。鈍い打撃音が響き、獣の骨が砕ける感触がアピスの手に伝わった。


「グルルゥ……!」

 魔狼が苦しげに唸り、よろめく。その隙をエリスが見逃すはずがない。彼女は魔狼の背後に回り込み、素早く跳びかかった。

「やあっ!」

 ナイフが魔狼の首筋に突き刺さる。しかし、エリスの腕力では深く刺しきれず、刃は浅い傷を残しただけだった。魔狼は振り向きざまに咆哮し、前足でエリスを弾き飛ばした。


「っ!」

 エリスが小さな悲鳴を上げ、地面に叩きつけられた。彼女の体が苔の上を滑り、背中が古木の根にぶつかる。手に持っていたナイフが一つ、地面に落ちてカランと音を立てた。

「エリス!」

「うっ……ごめん、おねえちゃん……」

 エリスの声は小さく、悔しさが滲んでいた。彼女は体を起こそうとするが、腕に力が入らない。


「大丈夫だよ、エリス。少し下がってて」

 アピスはエリスを庇うように立ち、棍を握り直した。彼女の瞳が魔狼を鋭く捉える。魔狼が再び襲いかかり、牙を剥いて飛びかかってきた。アピスは一瞬で間合いを詰め、棍を振り上げる。棍先が魔狼の顎を捉え、鋭い打撃音が森に響いた。獣の頭部が跳ね上がり、動きが一瞬止まる。その隙を見逃さず、身体を反転させながらアピスは棍を振り下ろし、魔狼の頭を打つ。ゴキリという頭蓋を砕いたであろう鈍い音と共に、魔狼の体が地面に崩れ落ちた。


 森は再び静寂を取り戻した。遠くで鳥の囀りが戻り、風が葉を揺らす音が聞こえてくる。魔狼の体から流れ出た血が苔に染み込み、鉄の匂いが微かに漂った。

 アピスは息を整え、エリスに駆け寄った。

「エリス、怪我は?」

 彼女の声は穏やかだが、どこか心配そうな響きがあった。エリスは地面に座り込んだまま、顔を上げて小さく首を振った。

「うん、大丈夫……でも、ちょっと情けないところ見せちゃった」

 エリスの声は少し拗ねたようで、瞳がおねえちゃんを見つめる。


 アピスは小さく笑い、エリスの頭を軽く撫でた。彼女の手は温かく、指先がエリスの髪を優しく撫でる。

「そんなことないよ。エリスがいてくれたから、私も安心して戦えたんだ。ありがとう」

 アピスの言葉に、エリスの頬がほのかに赤らむ。彼女は立ち上がり、アピスの腕にそっと触れた。二人の体温がほのかに混じり合う。


「さあ、傷の手当てをしよう。近くに泉があるよ」

 アピスは棍を手に、再び歩き出した。エリスもその後ろをついていく。



 森の奥深く、木々の間から聞こえていた水音が次第に近づいてきた。やがて二人は小さな泉に辿り着いた。泉は岩の間から湧き出て、透明な水が浅い窪みに溜まり、陽光を受けてキラキラと輝いている。辺りには湿った土の匂いが漂い、水面に映る木々の緑が静かな美しさを作り出していた。


 アピスは泉の縁に腰を下ろし、棍を脇に置いた。彼女は革袋から布を取り出し、泉の水で濡らしてエリスの腕を拭き始めた。

「ほら、エリス。汚れを落とさないと」

 彼女の声は穏やかで、指先は丁寧に動く。


 エリスは泉のそばに膝をつき、じっとアピスを見つめた。

「ありがと、おねえちゃん。……でも、私ももっと強くなりたいな」

 彼女の声には悔しさが滲んでいる。泉の水面に映る自分の姿を見ながら、小さく唇を噛んだ。


 アピスは小さく笑い、エリスの頭を軽く撫でた。

「うん、エリスならもっと強くなれるよ。私がちゃんと見てるから」

 彼女の手は温かく、エリスの髪を優しく撫でる。二人はしばらく泉のそばで休息し、戦いの疲れを癒そうとした。


 だが、静寂は長く続かなかった。

 泉の向こう、木々の影が不自然に揺れた。エリスの耳がピクリと動き、彼女が立ち上がる。

「おねえちゃん、また何かいる……さっきより、ずっと大きい」

 彼女の声は緊張に震えていた。


 アピスは即座に立ち上がり、棍を手に構えた。彼女の瞳が木々の間を鋭く見据える。

「エリス、今回は私がやるよ。少し離れてて」

 彼女の声は落ち着いているが、どこか強い意志が感じられた。


 木々の間から、巨大な魔狼が姿を現した。先ほどの魔狼よりも一回り大きく、黒い毛皮が陽光を吸い込むように禍々しく光っている。赤い目が燃えるように輝き、口から滴る唾液が地面を焦がす。魔狼が低く唸り、殺気が泉の空気を重くした。


 魔狼が地面を蹴り、アピスに向かって飛びかかってきた。その動きは速く、爪が空気を切り裂く音が響く。アピスは一歩踏み込み、棍を横に構えた。魔狼の前足が振り下ろされる瞬間、彼女は身体をそらしてその攻撃をかわし、棍を縦に振り抜いた。一撃が魔狼の前足の関節を捉え、骨が軋む音が響く。激しい勢いのまま地面に突っ伏した魔狼。よろめきながら起きあがろうとする。その瞬間、アピスは体を起こし、棍を突き出すように振り下ろし、魔狼の喉元を直撃した。砕けるような鈍い音と共に、魔狼の体が再び地面に崩れ落ちる。


 戦闘は一瞬で終わった。アピスは無傷のまま立ち尽くし、息を整えた。泉の水面が再び静かに波打つ。だが、その瞬間、彼女の腹部に鋭い痛みが走った。

「……っ」

 アピスは小さく息を呑み、腹を押さえた。傷はない。魔狼の攻撃は当たっていないはずだ。それなのに、焼けるような痛みが広がる。彼女は顔を歪めたが、エリスには気づかれないようすぐに表情を整えた。

 エリスが駆け寄り、アピスの腕に触れた。

「おねえちゃん、すごい!あんな大きい魔狼、一瞬で倒しちゃった!」

 彼女の瞳はキラキラと輝き、純粋な憧れが込められている。

 アピスは微笑み、エリスの頭を再び撫でた。

「うん、何とか倒せてよかった。今のは主みたいな感じだったし、今日は魔物も襲ってこないかも。ひとまず今日はここで休んでから進もう」

 彼女の声は穏やかだが、腹部の痛みは消えない。エリスには伝えず、心の中でその原因を探り始めた。

 泉の水面に映る二人の影は、静かに揺れていた。戦いの後、二人は泉のそばで夜を過ごす準備を始めた。陽が沈み、蒼月の森は薄闇に包まれた。泉の水面が月光を映し、辺りに淡い光を投げかけている。木々の間から聞こえる虫の音が、静かな夜に小さく響いていた。

 アピスはまず、1体目の魔狼の屍に戻った。先にエリスの手当てを優先したものの、彼女の信念として、命を奪った相手をそのまま放置することはできなかった。彼女は魔狼の屍の前にしゃがみ込み、静かに両手を合わせ、目を閉じた。

「…君も生きるために戦ったのだろう。命を奪ってごめん。せめて、君の一部を必要とする人に届けることで、命の重みを繋げたい」

 彼女の声は静かだが、確かな敬意が込められていた。彼女は革袋から小型のナイフを取り出し、魔狼の牙の一本を慎重に切り取った。鋭い牙が月光に鈍く光り、彼女はそれを厚手の布で包んで革袋に収めた。魔狼の屍は森に還る形でその場に残し、アピスは静かに立ち上がった。

 次に、彼女は2体目の魔狼――先ほど倒した「主」とも呼べる巨大な魔狼の屍の前に移動した。先程まで命の奪い合いをしていた黒い毛皮に覆われた巨大な体は動かず、赤い目から光は消えている。彼女は棍で軽く突き、完全に息絶えていることを確認した。だが、魔狼の口元からはまだ酸性の唾液が滴り、地面に落ちるたびにジュッと小さな煙を上げていた。鋭い牙が月光に鈍く光り、危険な存在感を放っている。

 アピスは革袋から厚手の布を取り出し、魔狼の口を覆うように巻き付けた。布が唾液に触れると、僅かに焦げる音がしたが、それ以上地面に滴るのを防いだ。彼女はさらに縄を取り出し、魔狼の口をしっかりと縛り、牙が露出しないよう固定した。その後、四肢を丁寧に縛り、運搬しやすいよう固縛を施していく。彼女の手つきは慣れたもので、縄がきつく締まる音が静かな森に響いた。

 エリスはその様子を少し離れた場所から見つめ、首をかしげた。

「おねえちゃん、なんでそんなことするの?怪我したわけでもないのに、わざわざ運ぶなんて……」

 彼女の声には怪訝そうな響きがあった。泉の水で手を洗いながら、アピスに近づいてくる。

 アピスは手を止め、エリスを振り返った。彼女の口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。

「この子だって私たちを食糧として必要としていたのだろう。私たちはこの子を必要とはしていなかったのだけど、命を奪ってしまった。ならば、この子を必要とする人に分け与えるのが最低限の礼儀であり、供養なんだよ。…さっきの魔狼にはその場で祈りを捧げたけれど、この子は主だったから、より多くの人が活用できるかもしれない。だから、街まで運んでみるつもりなんだ」

 彼女の声は静かだが、確かな信念が込められていた。アピスは縄を結び終え、魔狼の体を軽く引きずって運びやすい位置に整えた。

 エリスは少し考え込み、頷いた。

「うーん……そっか。確かに、そうかもしれない」

 彼女はアピスの言葉を噛み締めるように呟き、泉のそばに戻って寝床の準備を始めた。

 アピスは立ち上がり、革袋を脇に置いた。

「私たちが身に付けている革製の物だって何かの生き物から作られてその恩恵を預かってるからね。私たちもしっかりとやるべき事はやらないと」

 彼女は自分のベルトに手を当て、革の感触を確かめるように軽く叩いた。その目は月光の下で穏やかに輝いていた。

 二人は簡単な寝床を整え、泉のそばで夜を明かした。朝が来ると、空は薄い雲に覆われ、木々の間から差し込む陽光が泉の水面を淡く照らした。朝露が地面を濡らし、涼やかな空気が辺りを包んでいる。

 アピスは魔狼の屍を再び確認し、縄と布が緩んでいないか確かめた。問題ないことを確認すると、彼女は荷物をまとめ、エリスを振り返った。

「エリス、準備はできた?」

 彼女の声は穏やかで、朝の光の中で柔らかく響いた。

 エリスは荷物を背負い、アピスの隣に立った。

「うん、できた!行こう、おねえちゃん!」

 彼女の声は明るく、朝の光の中で弾むように響いた。

 二人は泉を後にし、蒼月の森を抜ける道を進み始めた。魔狼の屍を引きずるアピスの足音が、静かな森に小さく響く。だが、彼女の腹部には依然としてあの痛みが残っていた。焼けるような感覚は時折鋭さを増し、アピスの表情を一瞬曇らせる。

 エリスには気づかれないよう、彼女は小さく息を整え、歩みを続けた。

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