あと何歩。

人影

あと何歩

 間延びした海鳥の鳴き声が夕焼けをなぞるように通り過ぎ、季節感を誤魔化すように、涼しい風が前髪をすり抜けておでこを撫でていく。僕はそれを綺麗だと思った。同時に、どこかで見たような景色だと思った。そうやって記憶を辿るけれど、それらしいものは見つからなかった。

 そういえば最近、思い出せないことばかり増えてしまったな。

 漣の音の中に、僕は泣き声を見つけた。

「わかりました」

 キィと音が鳴って、僕は少しだけ海に近づく。それで僕は車いすに座っていることに気づいた。

 身体の節々が痛み、感覚が鈍るなかでどうにか身をよじり、僕は声の在処を探した。振り返ると、端麗な顔立ちをした女性がいた。目の前に夕陽に、どうしようもないほど似合う姿だと思った。けれどよく見ると、顔には疲労がたまっており、頬もこけてしまっている。目の下には隈があり、瞼は赤く腫れている。触れることを厭ってしまうような、どこか痛々しい印象を彼女から感じた。

 どうやら、その女性が僕の車いすを前に運んだらしい。彼女の瞳からから涙が音もなく溢れて頬を伝う。夕焼けに照らされて翳る彼女の姿に、僕はどうしようもなく心を動かされてしまった。この感情に名前を付けようと、ほんの短い時間瞼を閉じた。なかなか言葉が見つからなかったから、僕はこの感情を苦しさだと決めつけることにした。苦しくなるほど、美しいのだ。

 僕の手には一枚の紙が握られていた。手紙だろうか。丁寧に封がされている。自分が書いたものなのか、彼女がくれたものなのか。思い出すことはできなかった。

「……僕はどうしてここにいるんだろう」

 ふと、そんなことを聞いた。目の前に広がっているのは、海だろう。夕陽に照らされて水面が明滅を繰り返している。ひどく綺麗で、この場所で昔、何かをしたような、何かが起こったような気がする。

 けれど、僕には何も思い出すことができなかった。どういった経緯でこの場所に来たのかさえも。

 忘れるということは、怖い。忘れるということは、自分自身を殺すことと同義だ。自分の首に縄をかけて、徐々に締め付けられていく。

「なんでって……。二人で決めたじゃないですか」

「すみません。独りごとのつもりだったんです」

 僕は誤魔化すように笑った。生ぬるい風が傷口を柔く撫でる。

「もしかして、私のこと。また忘れちゃいました……?」

 涙が砂浜に落ちていく音が聞こえた。きっと、僕の空耳だ。けれど、今僕は確実に、彼女の心に傷をつけてしまった。

 僕が一人の人間のことを忘れる。そんなことが、本当にあるのだろうか。

 何かの嘘じゃないのか。そう思うけれど、彼女の涙がその疑問を許さなかった。

 そうか。

 彼女は、僕が忘れてしまったから泣いていたのか。

「思い出せないんです。何も。……最近、そういうことばっかりで」

 僕はこの人のぬくもりを知っているはずだ。思い出さなくちゃいけないはずだった。なのに、脳に保持された記憶の断片をかき集めても、彼女が僕にとっての誰なのかわからなかった。ただ、大切な存在だったのだろうなと、温度のない理解をするだけだった。

「それ。もうここに来てから五回も言ってますよ」

「……すみません」

「いいんですよ。だって、柊さん。貴方はそういう障害なんですから」

 私が信号を見ていなかったばっかりに。と、彼女は付け加えた。

「私の名前は朝井比奈です。二年前から貴方の恋人です。思い出しましたか?」

「……恋人?」

「これでも、まだ思い出せないんですね。……本当に重症です」

 彼女は、比奈は。諦めるようにしていった。それはどこかため息のように聞こえて、波の音にかき消されてしまった。

 僕が、比奈にそういわせてしまったのだろう。僕は何も思い出せないくせに、一丁前に傷ついてしまっていた。僕の心臓が、身体が。彼女を大切に思って仕方がなかったのだ。僕が比奈を忘れてしまうより前、どんな関係だったかはわからない。けれど、僕は。

 彼女の涙を、止めたいと。そう思った。

「とりあえず。敬語をやめてくれませんか?」

「貴方だって、敬語じゃないですか」

「私は元から敬語なんです。柊さんが元々会社の先輩だったので。ですが、柊さんが私に敬語を使ってしまうと、こう……。しんどくなるんですよ」

「貴方がそういうなら。そうしよう」

「先ほどの柊さんの質問に答えましょう。どうしてこの場所に来たのか。……どこから話しましょうか」

 僕は手に持った手紙をそっとなぞりながら比奈の声に耳を傾ける。比奈の声は、どこか舌足らずで幼い印象がする。聞き心地の良い声だ。

 ズキン。と頭に鈍痛が走った。急な出来事で、僕は思わず頭を掌で抑えつける。身体の節々にできた痛みの塊が軋みだした。

 彼女はそっと僕の身体をさすりながら言葉を続ける。

「私たちは、この砂浜で出会ったんです」

 この場所は当時の私にとって、辛いことがあった時の支えでした。涙を海に流せば、誰かに届くような気がしました。でも、感情は誰かに見せるためにあるものではありません。内心では、誰にも届くことはないとわかっていました。その日も、私は泣きながら海に感情を吐き出していました。ふと、思ってしまったんです。感情ではなく、身体を流してしまえば、全て楽になるんじゃないか、って。その時、貴方が私を見つけてくれたんです。

 それから比奈は、僕と交際に至るまでの経緯を話した。

 僕はそれを聞いても、何も思い出すことはできなかった。ただ、頷くことしかできなくて、どんどん酷くなっていく彼女の涙を止めることはできなかった。それどころか、僕の涙腺まで、夕陽にあてられて壊れてしまった。

「貴方が、私を救ってくれたんですよ」

 そういって、比奈は声を上げて泣いてしまった。

 どうして、僕は比奈を泣かせてしまうんだろう。どうして、僕は。

 大切な人を。

 僕は比奈の言葉に首を振った。

「僕は比奈を殺してしまったんだと思う」

「違います、そんなこと、ないです」

「生きることが誰かに覚えていてもらうことなら、忘れることは、人を殺すことだ。僕は比奈のことを何も思い出せない。比奈が笑いながら話したそれを、僕は何一つとして覚えていないんだ」

「そう、ですか。……本当にもう。どうしようもないじゃないですか」

「……ごめん」

「こんな気持ちになりたくなかったから、ここに来たのに」

「…………」

「どうしてくれるんですか! 柊さんが私に優しくするから、私は……!」

 比奈は、そのまま子供のように泣き崩れてしまった。

「ごめん」

 僕はそういうと、比奈は必死に首を振った。

「謝らないといけないのは、私なんです。ごめんなさい、ごめんなさい……」

「…………」

「柊さんが私のことを忘れてしまう前に、ここに来るはずだったんです」

 あぁ、そうか。比奈は——。

「……そうだったんだ」

 僕の手には、手紙がある。

 僕は感覚のない、痙攣を繰り返す指先を動かして、不器用に封を解いていく。

 ズキン。また、頭痛がする。今度はさっきのよりも大きな頭痛だ。脳の血管が痛みに悲鳴を上げて、破裂してしまいそうだった。

「う、あ」

 僕は全身を震わせながら、手紙を取り出す。


『僕だって、同じことをしていると思う』


 その一言だけ書いてあった。丁寧に書かれた、力強い文体で。

 そうか。彼女は、だから泣いていたのか。

 僕は分厚い風に吹かれる。

 海が波打っている。波打ち際に砂の城が建っている。それは波に攫われて、徐々に輪郭を失っていく。拙く淡い輪郭は砂をこぼしていき、やがて消えてしまうだろう。

 夕陽が僕たちを照らす。

「君のせいなんかじゃない。君は何も悪くない」

 僕は彼女という存在を背中で感じながら、できる限り優しい声を出した。

 ズキン。と頭痛がする。

「だから大丈夫。前に進んで」

 今度の頭痛はだめだ。耐え切れない。

 僕は目を閉じる。なんだか頭がくらくらして、景色がぼやけていく。

 視界が黒ずんでいく中で、海面が明滅していく様が見えた。

 君が死ぬ前に、この手紙を読んでほしいと願った。

 狭くなった視界に、比奈の涙が見えたような気がして。

 また一歩、僕は海に近づいた。


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