第2章 合鍵 1

 終電に間に合わない時間帯に成っていた所為せいか、アストラルのマスターが呼んだタクシーは中々来なかった。

 頭の中はズキズキとした痛みを覚えていたが、体調は思ったよりは悪く無かった。

 しかし、空車をタクシーをつかまえる気力や由佳のワンルームまで歩く体力までは、流石に今の俺には残っていなかった。

「八木沢さん、タクシーがやっと来たみたい」

「やあ、すまん、マスター。 今夜は随分と迷惑を掛けてしまったな」

 俺はタクシーが来るまで、残業をさせたことをマスターに詫びた。

「いいんですよ、私もお二人にはいつも楽しませて貰っていますから」 

 アストラルのマスターは、そう言うと俺にウィンクした。

 俺は、男からウィンクをされると、素直に背筋に悪寒が走る。

 酔い潰れの状態から、先刻さっき目覚めたばかりなのだ。

 その悪寒に、俺の残り少ないヒットポイントがきっちり半分は削られた。

 マスターには、もう少し年長者をいたわって欲しいと思う事が時々有る。


 俺が乗ったタクシーの運転手は、俺が行き先を告げた途端、急に愛想がなく成った。

 無理もないか。

 無線で呼ばれて、そこそこの時間を掛けてここまで来て見たら、二メーターの区間じゃ愛想も悪くなろうと言う物だ。 

「いやぁ、一寸ばかり派手に飲み過ぎちまったもので。 ハハハ」

 そう笑って見せたが、運転手は無言のままだった。

 仕方が無いので、由佳に「今、そちらに向かっている」 と連絡を入れようとスマホを取り出したが、もう直ぐ由佳のワンルームに着くので止めにした。

 俺はスマホをポケットに仕舞いながら、何故、由佳のワンルームに泊まろうと考えてしまったのかを自問した。

 「モリヤの笛」は既に消滅してしまったのだから、独りでどこかのホテルに泊まっても別に問題はなかった筈なのだ。

 竜巻が起こったら、二人でいたからと言ってどうにかなる代物でもなかったし、由佳の事だから明日は会社を休んで、きっと俺を心療内科に連れて行こうとするだろう。


 案外、「モリヤの笛」が元の持ち主のところに戻ってたりしていて。

 それは俺に取って最悪のシナリオだった。

 もう俺は、竜巻にはこりごりだ! 

 思考力が回復してくると、今夜、由佳のワンルームに泊まっても良い事が何もない事に気が付いた。

 そこで、急に気が変わって、今日はホテルに泊まることにした、ついてはもう独りで大丈夫だからと連絡しようとした時、タクシーが止まった。

 由佳のマンションの前に到着したからだ。

「すみません、もしかしたらホテルに泊まる事も考えられますので、このまま一寸と待ってもらえませんか? 今、連絡を入れますので」

 俺はそう言うと、もう一度、由佳をスマホで呼び出した。

 俺のスマホは確かに由佳を呼び出していたが、由佳は出なかった。

 運転手はそそくさと千円札からのお釣りを準備し始めた。


 タクシーがキィーと急発進して、俺から瞬く間に遠ざかって行った。

 よく考えたら、このままあのタクシーでどこかのホテルに行って、そこから由佳にお泊まりをキャセルする旨を連絡すれば良かったのだ。

 それに気が付いたのは、運転手からお釣りを貰ってしまった後だった。

 普段なら、もう少し早く気が付くのに。

 俺は酔い潰れてしまった事を後悔した。

 もう見えなくなってしまったタクシーの方角を見やりながら、俺はスマホに出なかった由佳を恨んだ。

「全く、肝心な時に役に立たない女だ」

 俺は由佳をののしった。

           

 俺はよろけながらも、由佳のマンションのエントランスに有る、入館する為の鍵穴に合鍵を差し込んだ。

 差し込んだ時、キーホールダーに保管はしていたものの、久しく使うことが無かった合鍵を見て、俺は少しばかり懐かしい気持ちに成った。

 そう言えば、由佳と別れる事に成った日、俺はお互いのマンションの合鍵を返却し合うことを提案したが、由佳から速攻で却下された。

 由佳曰く、女にとって恋愛関係だけが全てでは無くて、母や姉のように愛するやり方もあって、神様だって三位一体になってるからどうたらこうたらで、だから合鍵は双方共持っているべきなのだそうだった。

 俺にはさっぱり理解出来ない主張だったが、由佳の瞳の奥に怪しい炎が見えたから、そしてそう言う時の由佳は抵抗しても無駄だと知っていたから俺は了解した。

 それから由佳は、俺がとんでもない薄情者で、薄情者はその罪を償うために別れてからも友達として付き合わなければ成らないとも主張した。

 別れ話を持ち出したのは俺の方だったし、俺に対して一生懸命だった由佳に申し訳が無いと言う気持ちが少しは有ったから、俺はその事も了解した。

 しかし不思議な事に、由佳は俺と別れてからの方が妙に生き生きとしていて、特にアストラルに一緒に行った時などは、「よくぞこの女と別れていた」 と自分の賢明さを誇らしく思うくらい由佳のテンションは上がった。

  

 エレベーターに乗り込んで、由佳のワンルームに行こうとした時、俺は由佳の部屋番号を忘れてしまっている事に気が付いた。

 悪気は全く無かったのだが、俺の場合、もう行く事が無いと思った瞬間、その種の記憶が自然に消滅してしまうのだ。

 俺のそう言う所を、由佳は薄情者と呼ぶのだろう。

 そしてその主張は、数ある由佳の主張の中で、唯一、俺にも理解が出来る物だった。

 このマンションは女性の一人住まいが多いと由佳が言っていたが、案の定、郵便受けに名前を表示している部屋は無かった。

 管理人室も見当らない。

 誰かがこのマンションに帰宅するまで待ってその人に聞くかだが、その人が由佳の部屋番号を知っている保証は無かった。


 結局、俺はマンションの外からもう一度、由佳のガラ携に連絡を入れることにした。

 合鍵を持ってくるのを忘れたと言うのだ。

 ところで由佳は、幾ら俺が「ガラ携からスマホに乗り換えろ!」 と言っても、頑として首を縦に振らない。

 今時、バッグからガラ携を取り出して連絡していたら、周囲の人々から奇異な眼で見られるに決まっているのに、由佳はそんな事には全く気にもめないのだ。

 スマホは使わない無駄な機能が多過ぎるし、第一、ガラ携はサイズがコンパクトなので、由佳的にはガラ携の一択なのだそうだ。

 「まあ、由佳は化粧さえしない女だからな。 ガラ携が一番似合ってると言うべきか……」

 俺は、そう独りで呟いた後、合鍵を忘れた言い訳について考えた。


 今日は俺の部屋で竜巻事件が起こったから、気が動転して持ってくるのを忘れたと言えば、流石の由佳も信じるだろう。

 そして由佳がエントランスのドアを部屋から開けた時、あれ?エントランスから部屋の呼び鈴が鳴らせたっけ?と言えば、

 「馬鹿ね! 〇〇〇号の前まで上がって来てから呼び鈴を押して頂戴!」と由佳は言う筈だ。

 そして由佳が出てきた所で、「ああ、こんな所に有ったよ」 と言って鍵を見せれば、俺が何時も由佳の合鍵を携行している事を喜ぶ筈だ。

 しかし、俺って、どうしてこんなに由佳に気を使ってしまうのだろう?

 俺は少しばかり、自分の事が情けなく成った。

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