第1章 モリヤの笛 6
「ちょ、その前にあんた、何で私と八木ちんのフルネームを知っている訳?」
八木沢は、彦次と言う自分の名前が大嫌いらしく、「ヒコちゃん」とか呼ぼうものなら烈火の如く怒るので、無用な紛争を避ける為に私はこれまで「八木ちん」と呼んで来た。
私個人としては「ヒコちゃん」は、「ペコちゃん」や「ポコちゃん」と同系統の可愛い愛称だと思うのだが、本人が極度に嫌がるので、私自身の淑女としての品格を保つ為に、敢えてそれを封印して来ていたのだ。
本人曰く「彦次」と言う名前は「ダサい」らしい。
八木沢は、素が十分に「ダサい」のだから「彦次」でも良さそうな物だが、名刺の名前も漢字ではなくローマ字で記載していた。
「あのう、菊池由佳さん。 さぞ驚かれているとは思いますが、今は詳しくお話しする時間が無いので」
「モリヤの笛」からは、常にガーと言ったノイズのような音も一緒に聞こえている。
「こちらの方に一寸した事情が有りまして、僕は今、特殊な空間から貴女に通信しています」
「通信しなくて良いです!」
「お気持ちは十分に察しますが、これも我々の技術的な理由から、あと数分後に起こる空間の歪みを利用して、あなたをこちら方に搬入しなくては成りません。」
「搬入?」
どうやら、私はかなり危機的な状況に追い込まれているらしかった。
数分後には、「モリヤの笛」は私をどこかの場所に搬入すると宣告したのだ。
少なくとも、八木沢が見たのは幻覚ではなかった事がこれで判明した。
八木沢が見た物が幻覚でなかった以上、私の危機的な状況も幻覚ではなかった。
「実は、僕達は貴女に折り入って大切な頼み事が有るのです。 そしてそれは、どうしても貴女でなければ出来無いお願いなのです。」
「僕はとてもお腹が空いているので、これから貴女を食べる事をお許し下さい」 と言われたらどうしようかと心配していたので、私はその点だけは少し安心した。
そして、私はこれがドッキリカメラである可能性を考えてみた。
ドッキリカメラのスタッフが隠れるとすれば、この狭いワンルームだと、トイレかバスルームかディアウォールで仕切られたオープンクローゼットの空間しか無い。
しかし、その全ての場所を、部屋に戻ってから私は既に調べてしまっていた。
「あっ、予定された軌道で空間が歪み始めました。 それではゆっくりとベッドに横になって下さい。」
ドッキリカメラ説は脆くも崩れ去って、八木沢が言っていたスローモションの竜巻が始まった。
「大丈夫!心配しないで。 貴女は僕達に取ってとても大切な方ですから」
心配するなと言われて、はいそうですかと納得出来るような状況ではない事は分かっていた。
ただ、私のワンルームに戻ってから
「あのう、私はどこに搬送されるんですか?」
「貴女は何も心配しなくて良いです。 それより早くベッドに横に成って下さい! そして眼を閉じて。 そう、もっと身体の力を抜いて下さい。」
熟練した外科医のような口調で、「モリヤの笛」は私に指示した。
「ターゲットのイエローピッグとコンタクトが完了しました。 今からポイントビューウィックへ搬送します。 搬入準備をお願いします。」
「モリヤの笛」とその仲間達の間で、私はどうやら「黄色い豚」と呼ばれているらしかった。
彼らに取って、私は大切な方の筈だったが、その割りには冴えない名前を付けて呉れた物だ。
八木沢の方は、「ダークゴート」とでも呼ばれているかも知れない。
私に取っては、これ以上はない劇的な状況だったから、もっとドラマティックなコードネームを付けて欲しかった。
幾ら何でもイエローピッグは
ところで、「モリヤの笛」は一体いつから、そしてどこから私を観察していたのだろう?
八木沢からの連絡でやっと特定出来たと言っていたから、八木沢はモリヤの笛からずっと観察されていた可能性が高かった。
だが、少なくとも「モリヤの笛」が、かつて私のワンルームに有った頃は、彼の活動が開始されていなかった事だけは明白だった。
イエローピッグかぁ!
私は
今夜、アストラルでぶうぶうと鳴き過ぎた事を私は後悔した。
せめて「イエロードール」位に昇格させて貰えない物かとも思ったが、本当はもっと深刻で重大な危機が私には迫っている筈だった。
そして、「モリヤの笛」に拉致されかかっていると言うのに、八木沢が私のワンルームに未だ到着していない事に、私は気が付いた。
八木沢から私に連絡が有ってから既に三十分は経っていた。
直ぐにお店を出て歩いて
「この役立たず! のろまの山羊野郎!」
そう八木沢
その「単なる一体」は、やがて私を「一次元の点」に還元させてしまった。
「八木ちん、私、今、モリヤの笛に拉致されかけてるよ。早く助けに来てよ!」
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