エイジオブサブマリン

ビーデシオン

第一章 ネスト探索

第1話 蛇人魚・メロウ

 一筋の光に照らされる、不気味なほどに真っ白い岩肌。

 石灰岩でつくられた洞穴の中心に、無骨なシルエットの人影が一つ。

 潜水服からこぼれ出た泡が、頭上の壁面に引っ付いた。


 この空洞は、海水で満ちている。


 防水バッグの内側に無理やりねじ込んだ目覚まし時計が喧しく、今すぐに引き返せと鳴り続ける。自動で止まってくれる気配もない。


「ここまでか……」


 彼は誰に聞かせるでもなく、ただ諦念に任せて呟いた。

 本来なら彼は、潜水開始から二十分以内に目当ての物が見付からなかった場合、即座に引き返さなければならなかった。

 それを無視して進み続けることを選んでから、既に十分は経っているだろう。今すぐに引き返すことを選べば、無事に帰還できる可能性もあるが……


「どうせ……貧乏くじなんだったら……」


 ボンベの容量はまだ十分にある。目当てのものを見つけることができれば、自分の命は助かるはずだ。

 いや、どの道他に選択肢は無い。自分が任務を果たせなければ、仲間たち全員が緩やかに命を落とすことになる。


「全部今更だ……」


 自分にそう言い聞かせて、不安定な岩肌を踏みしめる。

 振り返ることなく進み続けていると、いつの間にかアラームも止んでいた。呼吸音は滞りなく聞こえているから、聴覚の異常ではないはずだったが……彼にはもう、わからない。


「諦めて……進み続けろ……」


 正常な判断力など、とうの昔に失われてしまったのかもしれない。

 それでも自分が正気だと信じて、ただひたすらに歩き続ける。

 古い文献に載っていた、おとぎ話めいた情報だけを頼りに。

 たとえそれが、どんなに不確実なモノだとしても。

 そうして強い意志を持って、進み続けていれば、いつかは……


「あぁ……」


 遥かなる希望へ、たどり着くと信じて。

 洞窟の突き当たりに向かって右斜め上方向。

 ヘッドライトの明かりに照らされて、微かに揺れる水面が見えた。


「空気溜まりだ……」


◆◇◆◇◆


 念のために三分間、水面近くで停止したのちに上昇し、潜水服が岩肌に擦れないよう気を付けつつ、空気溜まりに踏み込む。

 ライトが照らす先を見たところ、洞窟はまだ続いているらしかった。


「あとは……呼吸ができるかどうか」


 十分に海水を払い落し、慎重に右腕周りの潜水服を外して袖を捲る。


「とりあえず、空気はありそうか」


 肌の感覚だけで判断するのもどうかという話ではあるが、それくらいしか思いつけなかったのだから仕方がない。

 恐る恐るヘルメットを外して……異常がないことを確認し、混合ガスの吸引機も外してみることにした。


「異常なし。多分、おそらく」


 ひとまず、この空間に有害物質は満ちていないと断定し、ヘルメットを軽く固定し直した。同時に、外していた潜水服のパーツも着け直す。

 少し動きづらくはあるが、ここに置いて行くわけにもいかない。予想していたことは現実に起こったわけだが、目的はまだ達成されていないのだから。

 そういう風に考えて、うっかり水中に落ちたりしないよう気を付けつつ、しばらく歩き続けてみることとする。


「思ったより広いな……」


 分かれ道か何かがあれば見逃さないよう、ヘッドライトで壁際を照らしつつ、できるだけ隅々まで見ていく。

 今のところ何かがいる気配は無いし、生物の痕跡も見つかっていないが、もしそういったものがあれば貴重な資料になるはずだった。


「……光?」


 そうしてしばらく歩いていると、進行方向に光が見えた。

 青白い光だ。

 もしかすると、目当ての物は、すぐ目の前にあるのかもしれない。

 そういう風に考えて、恐る恐る近づいてみれば、すぐに光源の正体が分かった。

 白く濁った水晶のように半透明で、眩い光を放つ結晶体。

 天然モノを見るのは初めてだったが、間違いないと直感する。


灰素かいそ結晶だ……!」


 感激するあまり、うっかりそのまま触れてしまいそうになって、思いとどまる。

 危ういことだ。灰素かいそというものは、通常の生石灰の性質を限界まで極端にしたような性質を持っているというのに。密度の高い灰素のソレは、水に触れれば発熱するなどという、生易しいものではない。

 相応しい言葉を挙げるなら、爆発だ。

 今、海水の飛沫をこれに浴びせていたら、彼の体は爆風に飲み込まれていたことだろう。


「一回、落ち着こう」


 そういう風に思って、彼は大きな深呼吸を始めた。

「すー」

 まずは全身の水気を切って、それからバックパックの中身を改める。

 中が濡れていたら問題だが、その様子が無ければこれを使って持ち帰れるはずだ。

「はー」

 だがその前に、丁度いい大きさに切り出してやるべきだろう。

 ピックは持ってきているはずだがこの大きさでは骨が折れるだろうか。

「すー」

 水中探検が孤独すぎた反動か、思考がどんどん加速していってしまう。

 落ち着こうとしているはずなのに、心の声が次々湧き出て止まらなくなってしまう。

「はー」

 そんな風に、心の声がこぼれてどうしようもない時は深呼吸。

 物心ついた時から続けている、彼の頼れるルーティーンだ。


「すうぅ……! はぁぁぁぁ」


 最後はひときわ大きく息を吸い込んで、長い時間をかけて吐ききる。

 肺の中の空気をすべて出しきるまでそれを続ける。

 こうすることで加速した思考がゆっくりと、ゆっくりと元通りになるはずだった。


「落ち着いた?」

「ああ……うん?」


 反射的に返事をしてから、思考が固まる。


「誰だ!?」

「あら、良い反応」


 言うまでもなく、彼は一人で探索を試みていたわけで。何事も無ければ存在するはずのない声をかけられて、彼の心臓は跳ね上がる。


「そんなに驚かなくても良いと思うけど」


 そんな言葉を貰っても、当人の心拍は戻りそうになかった。

 なぜなら普通の人間が、こんな場所に居るはずがないからだ。

 数歩大きく後ずさって、女性的な声の主の姿を見据える。


 その首筋に切り揃えられた銀髪や、くりりと大きな水色の瞳が構成する顔立ちはあまりに整いすぎていた。

 水平方向に伸びた長い耳や、青みががった肌色が遺憾なく発揮された愛らしくも耽美な容姿には、底知れぬ魔力がある。

 その正体に、彼は気が付く。


「あなたは……」


 臍から上に近づくにつれ、少しずつ間隔の開いていく紺の鱗。

 横腹から両肘側に続き、手の甲にかけて残った硬質の表皮。

 対照的に現れて際立つ青みがかった肌色と、生来の下着めいた銀鱗に押されて強調される胸の谷間。

 鎖骨や首筋ははっきりと見えるのに、その頬には背骨から登った鱗が纏わりついている。


 先述の衣装の他に一糸まとわぬその姿は、率直に言って艶めかしい。

 それでも確かに彼女が人外の存在であることを強く知らしめるように……彼女のは伸びていた。


 臍の下から尾にかけて。

 下半身が、大蛇の形をしていたのだ。


 地面を捉える紺色の鱗肌。そこからずーっと伸びていく下半身は、大蛇と言うが相応しいたくましさと、十分な太さを持っていた。


 少女の上半身に、大蛇の下半身。

 青みがかった肌の色や異形の姿を踏まえても、その蠱惑的な装いによって人間を……特に多くの男性を魅了して止まないその種族の名は……


蛇人魚メロウ……!」

「お父さんは確かそう言ってたかな。お前は人間じゃないんだよって」


 口ぶりからして、人間を見たことはあるのだろう。

 しかし、彼女らの性質を考えればそれも珍しいことではないと言える。


「僕を……襲うつもりか?」


 何故なら、彼女らは人間のコミュニティから男をさらって生殖を遂げるのだから。


「まさか。あなたを襲う理由が無い」

「そ、そうか……」

「私はただ、あなたが何者か知りたいだけ」


 当然のようにそう伝えられ、ひとまず安堵してため息をつく。

 メロウは好みの男性をつがいに選ぶが、選ばれた男性は大抵悲惨な末路を迎えることとなる。彼女らはその見た目の通りに海中での活動が可能だが、人間はそうではないからだ。


 だから、こちら側にとってその宣言は、大変ありがたいものだった。

 とは言え、彼女が友好的な存在だと、明確に決まったわけではない。

 ひとまず会話はできるようだが、事は慎重に運んでいく必要がある。


「僕はクラウス。お察しの通り、人間だ」


 そんな思考の下、彼はひとまず自己紹介から始めることにした。

 自分のことを人間と言い表すのには何とも言えないむずがゆさがあったが、これ以外に言い表しようがないので仕方がない。

 相手にあれこれ聞く前に、まず自分から名乗る。こればかりは、相手が人間でなくても通用する基本であるはずだった。


「どうも。私はエルマ。ここで働いてる」

「……働いてる?」


 だがしかし、エルマと名乗ったメロウの言葉は、クラウスの知識欲をどうしようもなく刺激してしまうことになる。


「やっぱりここには、海人カイジンのコミュニティがあるのか?」 

「ソレが何かは知らないけど、私を雇ってる人たちはいる」

「まさか」


 彼の前のめりな質問にも臆さず、淡々と返された言葉を受け、クラウスはあからさまに驚いて目を見開いた。予想外に、有益な情報を得られてしまったからだ。


 彼女の話が本当であるなら、言語を用いてコミュニケーションが可能な(人間でない)種族のコミュニティが、この環境には存在していることになる。


 彼自身、あらかじめ予想立てていたことではあったものの、この探索地点にそうした共同体が存在するとなれば、クラウスと仲間たちの計画は、随分と進展することになるはずだった。


「知らないなら、案内しましょうか」


 そんな中で、願ってもない申し出を受けては、断れるはずもなく。


「是非とも、お願いしたい!」


 クラウスはこれまた前のめり気味に、エルマの提案を受け入れた。

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