第17章:火と声と、涙の接点
「ジョウくん、あんた……なんでそんな顔してんのよ」
画面の向こう。kurenaiは静かに笑った。
カメラの画角は粗く、光源もどこか足りない。
だが、その表情には確かに人間の温度があった。
過去の配信で見せていた演出やフェイクの色気ではない。
火傷跡のように残る、生き延びた女の艶。
ジョウは手の中でマウスを握り潰しそうになりながら、
ようやく、ひとことだけ、チャットに書き込んだ。
「……遅かったか?」
kurenaiの視線が、画面の奥で少しだけ揺れた。
それは明らかに、ジョウの存在を確認した反応だった。
だが彼女は、すぐには言葉を返さなかった。
「ラストって言ったけどさ。
ほんとは、そうじゃない。
たぶん、これが――始まり。
ううん、“戻る”ってことなのかも」
kurenaiの声には、低くくぐもった決意のようなものがあった。
それは、鋼の中で鍛えられた魂の重さに似ていた。
「私、今日でこの名前も捨てる。
“kurenai”ってラベルで生きてきたけど、
もう、その皮を……脱ぎたい」
沈黙が、数秒。
それは溶接機が静かになる時間よりも、
ずっと長く感じられた。
そして、彼女が言った。
「ジョウくん、会ってくれる?」
その言葉は、鋼板の奥に差し込まれた熱線のように、
ジョウの胸の中を焼き切った。
⸻
ジョウは夜の工場を出た。
溶接の匂いが染み付いた作業着のまま。
顔も洗っていない。
だが、行かなければならなかった。
“配信”でも、“記憶”でもない、
彼女自身に会いに。
冷たい風が、首筋を撫でていく。
だが彼の中には、あのラスト配信の光がまだ、残っていた。
行き先は、都内の小さなスタジオバー。
kurenai、いや、彼女が次の人生を始めるために働き始めた場所。
人前に出るのは初めてだと言っていた。
けれどその震える声の向こうに、確かに“生きる女”の影があった。
地下に続く階段を降りていくたびに、
ジョウの鼓動は、アークの点火音のように速くなっていった。
光と影の中、音も匂いも湿った空気も、
彼にとっては全部、今夜の火花の一部だった。
そして、扉の向こう――
その先に、
“彼女”が待っていた。
⸻
扉は、押すとわずかに軋んだ。
まるで、誰にも開けられることを想定していなかったように。
その瞬間、かすかに漂ったのは――香水ではなく、鉄粉に似た匂いだった。
地下のバーの空気は重く、しかし無理に装飾されていなかった。
飾り気のない木製カウンターに、シンプルなステージ。
照明は柔らかく、酒瓶の並ぶ棚が、まるで過去の記憶を並べたようだった。
「……ジョウくん?」
その声は、すぐにわかった。
胸の奥で、溶接機のアークが走るように音を立てた。
目の前にいたのは、配信の中の“kurenai”ではない。
スーツでもなく、ユニフォームでもない。
ただの――彼女だった。
髪は短くなっていた。
だがその瞳は、あの夜と、あの配信と、あの涙と、まったく同じ色をしていた。
「来ると思わなかった。……いや、来てほしかった、かな」
ジョウは何も言えなかった。
口を開けば、何かが壊れそうだった。
だから、ただ歩み寄り、彼女の前に立つ。
「ずっと……見てたんだ、あんたの配信。
でも、途中から、画面の向こうじゃ足りなくなった。
音も、声も、息遣いも……全部、画面のガラスが邪魔だった」
ようやく言えた言葉。
それは、あまりにも不格好だった。
kurenai――いや、由梨(ゆり)は、静かに笑った。
「私もよ。あなたのこと、知ってた。
どんな溶接をするか、どんな手で、どんな目で、鉄を見てるか……配信でわかった」
ジョウの手が、無意識に由梨の頬に伸びた。
触れた瞬間、彼女の肌は震えた。
だが、それは拒絶ではなかった。
むしろ――待ちわびた熱だった。
「……あんたの配信、最初は見てなかった。
けど、ある日、ふと流れてきたの。
煙の向こうで、無言で鉄を炙ってるあんたの映像。
画面が曇ってんのか、あんたの目が濁ってんのか、分かんなかった」
「そりゃ、あの頃は……正直、生きてるだけで精一杯だった」
二人の言葉は、交差しながら、空気の中に溶けていった。
もうカメラも、マイクも、編集もいらない。
そこにあるのは、本物の肉声だけだった。
由梨は、ゆっくりとジョウの胸に額を預けた。
「配信やめた理由、知ってる?
あの日、配信中に来たの。客が。……“そういう”客が。
チャイムの音が聞こえた? あれ、インターホンの音だったのよ」
ジョウの腕が、彼女の背中を包んだ。
鉄よりも、溶接よりも熱く、静かに――しかし確かに。
「……俺がその場にいたら、絶対にぶん殴ってた」
「だから、戻ったの。自分で生きて、自分で笑う場所に。
配信のなかじゃなくて、自分の足で立つ場所に。
それを、あんたにも見てほしかったの」
彼女の声が、震えていた。
それは、悲しみではなかった。
許されることのない時間を、ようやく断ち切れた人間の震えだった。
そして、沈黙の中。
二人はただ、抱きしめ合った。
その体温に、火花はいらなかった。
アークも、配信も、喧騒も、鉄の匂いもいらなかった。
そこには、ただ一つ――
「涙と火が、初めて同じ温度になった」瞬間があった。
⸻
朝焼けは、鉄の粉塵を透かして街を照らしていた。
シャッターの閉まった倉庫街の一角にある鉄工所――新藤溶接工業。
その門の前に、ジョウは立っていた。
肩には、ずっと使い込んできた皮の工具袋。
足元には、錆びかけたスチールの箱。
中には、新しい面(おもて)と、一本だけ残った自作のチップ。
扉を開けると、金属の擦れる音が静かに返ってきた。
現場の空気は、記憶の中よりも冷えていた。
それでも、鉄はそこにあった。
機械も、溶接機も、研磨機も、かつてのままに沈黙していた。
「……帰ってきたんか」
聞き覚えのある声が、奥から転がってきた。
作業服に身を包んだ、白髪混じりの源さん。
溶接歴40年、ジョウにとっての“もう一人の親父”だった。
「勝手に辞めて、勝手に戻ってきて……次は何や、女にでも振られたんか?」
そう言って笑うその顔に、怒りはなかった。
あるのは、ただ――同じ炎を知る者同士の温度だった。
「いや……やっと、火を見つけたんだ。消えてたと思ってた、自分の火を」
ジョウは静かに言った。
源さんは、ふっと鼻を鳴らし、工場の奥を顎で示した。
「じゃあ、こいつに火ぃ入れてみぃ。冷えたままじゃ、鉄も腕も腐るわ」
奥には、あの神鋼製のアーク溶接機が眠っていた。
ジョウが最も信頼していた機体。
だが、最後に使った日から、すでに一年以上の時間が流れていた。
コードを巻き直し、接点を磨き、トーチを握る。
その手が震えていたのは、恐れではない。
再び、火を操る覚悟のための儀式だった。
「……いくぞ」
その瞬間、バチンッという閃光が走った。
鉄板が、赤く光り、煙が立つ。
アークが踊り、火花が走る。
それはもう“技術”でも“経験”でもなかった。
――命の再点火(リイグニッション)だった。
源さんが黙ってその様子を見ていた。
途中、何度か顔をしかめたが、最後には口元を緩めて呟いた。
「やかましい火やな……けど、ええ音しとるわ」
作業が終わったとき、ジョウのつなぎは汗と粉塵にまみれていた。
だが、胸の中には、それ以上の熱が残っていた。
その夜。
溶接機の余熱がまだ残る工場の片隅で、ジョウはスマホを取り出した。
指先は、わずかに震えていた。
それでも、配信アプリを開いた。
【@jou_arc LIVE開始】
画面の向こうに、無数の視線が集まり始める。
コメントが飛び交い、スタンプが流れた。
だがジョウは、カメラの前でただ一言、静かに言った。
「ただいま」
そして、背後で機械が唸りを上げる。
ジョウの背に、再点火されたアークの閃光が走った。
そこに映っていたのは――
虚構でも、過去でもなく、“今”を生きる男の姿だった。
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