第2話:エルザ・ヴェルデン
扉の向こうから、軽やかな足音が廊下の静寂を破った。その歩みの律動に、ヴォルクの耳は既に見知った相手を感じ取っていた。続いて控えめではあるが、確かな存在感を持ったノックの音。
「どうぞ」
ヴォルクは視線を書類から離すことなく返答した。簡潔な一言だが、その声色には、来訪者が誰であるかを悟った瞬間の、微かな高揚が混じっていた。
扉が開き、財務省査察課首席書記官のエルザ・ヴェルデンが姿を現した。三十四歳という年齢は、官僚としては若く見えるが、彼女の瞳には既に十年以上の経験が刻まれていた。ガイアス生まれの彼女は中流上位の官僚家系の出であり、その血筋は彼女の立ち振る舞いの端々に表れていた。黒髪を簡素ながら品位のある形にまとめ、控えめな化粧と装飾は、かえって彼女の知的な魅力を引き立てている。
彼女がその手に持つのは、幾つかの朱印が押された一枚の公文書であった。ヴォルクは一瞬、その白い指に目を留めた——それは美しいというよりは有能さを感じさせる手つきであり、だからこそ彼の中で何かを揺さぶる何かがあった。だが彼はすぐに、そうした卑近な思いを意識の奥へと押し込めた。
「おはようございます、室長。昨日ご依頼のありました貿易収支の分析結果でございます」
エルザは礼儀作法に則った丁寧な一礼をすると、机上に文書を差し出した。その動作には無駄が一切なく、ガイアス生まれの都会的な洗練さが表れていた。地方出身のヴォルクがいまだに意識せずにはいられない洗練さである。
ヴォルクはようやく視線を上げ、文書を受け取った。そして一瞬、彼の目は彼女の顔を捉えた。落ち着いた色香は、庁内の噂では「華麗な冷蔵庫」と評される要因だったが、ヴォルクはそれを単なる色香以上の何かとして感じていた。だがそれはあくまで無意識の領域であり、彼自身が明確に認識するものではなかった。
「ご苦労だった。朝から手早いな」
彼のこの言葉には、上司としての評価と、その裏に隠された個人的な感情が同居していた。エルザはそれを察知しながらも、完璧に無視する術を心得ていた。
「ありがとうございます。例の北部開発案件もございますので、先に済ませておきました」
エルザの返答は、いつもながらに効率的で実務的だった。彼女の声には感情の起伏はほとんどなく、しかしそれゆえに、逆説的に彼女の知性と能力が際立って見えた。十年以上の官僚生活が磨き上げた処世術の表れでもあり、帝国の首都で生まれ育った者特有の冷静さでもあった。文書に目を通しながら、ヴォルクは小さな咳払いをした。
「まあまあ。数字に嘘はないということだな」
彼の口癖である「まあまあ」は、エルザの前では少し大げさに強調される傾向があった。自分が地方出身であることを意識しつつも、同時にそれを誇りにしようとする複雑な心理の表れであった。彼は無意識のうちに、彼女に対して自分の価値を証明しようとしていたのだ。ヴォルクは机の右側に積み上げられた書類の束を指差した。
「それより、例のセントラル地区の税収調査の結果はどうなった?」
この質問の裏には、仕事への関心だけでなく、エルザとの会話をもう少し続けたいという微かな願望も隠されていた。彼はそれを自覚してはいないが、エルザという女性の存在は、彼の日常に小さな彩りを与えていたのである。
エルザは一瞬だけ表情を引き締めた。その仕草は、限りなく抑制されていながらも、彼女の整った顔立ちをより引き締まったものに変え、ヴォルクの目にはそれが奇妙な魅力に映った。
「それが、少々問題がございまして」
この言葉に、ヴォルクの眉が僅かに寄った。
「ほう」
彼は手元の文書を閉じ、椅子に深く腰掛け直した。この仕草は、彼が「有能な上級官僚」として振る舞おうとする意識的な演技であると同時に、エルザの前で少しでも自信ある姿を見せたいという無自覚な願望の表れでもあった。
「詳しく聞こうか」
エルザは周囲を確認するように一瞥し、声を落とした。彼女の慎重な態度に、ヴォルクは思わず身を乗り出した。二人の間に流れる緊張感は、単なる仕事上のものではなかったが、エルザはそれを完璧に無視し、常に公務員としての役割に徹していた。
「セントラル地区の西側区画、特にマーキュリー通り沿いの商店の税収申告に不審な点がございます。過去三年分を遡って調査したところ、季節変動を考慮しても説明のつかない増減が見られるのです」
彼女の説明は論理的で隙がなかった。それはヴォルクにとって、彼女の最も魅力的な部分の一つでもあった。
「具体的な数字は?」
ヴォルクの質問は簡潔だった。帝国の財務官僚として長年生きてきた彼は、数字という最も偽りのない言語を信じていた。感情や言葉は嘘をつくが、数字は決して嘘をつかないと。
「約二十二パーセントの乖離があります。しかも、その変動が奇妙なほど規則的なのです」
エルザの回答を聞きながら、ヴォルクは無意識のうちに内ポケットから葉巻を取り出し、指の間で転がし始めた。これは彼が思考を巡らせる際の癖であったが、エルザの前ではより意識的に「落ち着いた男」を演出するための小道具にもなっていた。
「まあまあ、偶然にしては出来すぎたということか」
彼の声には、高揚が滲んでいた。それは事件の謎に対する興奮と、エルザとの共同作業への期待が混ざり合ったものであった。彼女の有能さは、彼の官僚としての理想でもあったのだ。
「調査の許可を取り付ける。上層部がどう言おうと、我々には調査する義務がある」
この一瞬、彼は単なる俗物ではなく、職務に生きる官吏としての誇りを見せていた。そしてそれは、エルザが密かに評価する唯一の部分であった。彼女は表情には出さないが、ヴォルク・アルブレヒトという男の、虚飾の奥に隠された本質を見抜いていたのである。
エルザは静かに頷いた。彼女の冷静な観察眼は、室長の二面性を完全に理解していた。彼が己の弱点を隠そうとする様子も、無意識に彼女に示す好意も、すべて見透かしていた。しかし彼女はそれをおくびにも出さず、常に完全な距離感を保っていた。
「必要書類は既に準備してあります。局長の押印がありさえすれば」
彼女の先読みの能力に、ヴォルクは「うむ、よくやった」と称賛した。そしてその声には、上司としての評価だけでなく、男としての感嘆も僅かに混じっていた。だがエルザはそれにも反応せず、常に完璧な公務員としての態度を貫いていた。
ヴォルクは窓の外を見やった。朝霧は徐々に晴れ、ガイアスの都市は日中の喧騒へと向かって息づいていた。彼は静かに微笑んだ。数字の向こうに隠された真実を追う——それこそが、彼がガイアスという巨大な迷宮の中で見出した、小さな、しかし確かな生きがいだった。
「今日から少し忙しくなりそうだな」
*
帝都財務省庁舎、その正門前。
朝霧はまだ完全には晴れず、石壁と光の境界が曖昧になっていた。白灰色の石畳の上には昨夜の露が薄く光り、庁舎の重厚な輪郭さえもが、まるで歴史の重みに耐えかねて輪郭を失いかけているかのように、ぼんやりと滲んで見えた。
ラグナル・フェーン——地方庁査察部より、本日付で財務省査察課に栄転を果たした若き官吏である。彼のような若年での栄転は稀であり、それはつまり、彼が並外れた能力を持つ者であることを意味していた。
黒の外套を羽織ったその姿は、決して華美でもなく、かといって粗末でもない。背筋はまっすぐに伸び、足取りには地方の荒波にもまれた者特有の、地に足の着いた確かな重みがあった。そこには派手な自己顕示欲もなく、同時に過剰な謙虚さもない。ただ、己の立ち位置を正確に把握した者の姿勢であった。
彼の表情は穏やかであり、その眼差しは、庁舎の石壁も、正門の衛兵たちも、すべてを静かに、正確に観察していた。数秒のうちに、彼はこの場の持つ力関係の地図を、頭の中に描き終えていた。だがそれは、決して悪意を持った観察ではなく、新たな環境に身を置く者の当然の警戒心に過ぎなかった。
手には一枚の配属通知書。地方庁の印章と、帝都財務省人事課の認証印が、厳格な序列社会の壁を越える通行証となっていた。羊皮紙に押された赤い印が、彼のこの門をくぐる資格を無言で保証していた。帝国の複雑な官僚機構において、たった一枚の紙が持つ権威の重さは、時に兵士一個小隊のそれを上回るものだった。
ラグナルは一度、浅く呼吸を整えた。それは緊張からではなく、新たな環境への適応を意識した、意図的な儀式のようなものだった。そして、誰に聞かせるでもない声で、小さく呟いた。
「さて、行きますか」
まるで、毎朝の通勤に一歩踏み出すだけの、ありふれた儀式のように。しかし実際には、帝都財務省査察課への栄転は、官吏としての彼の人生における大きな転換点だったはずである。その平静さは、並外れた自己抑制力の表れか、あるいは何か別の理由によるものか——それを見抜く者は、この場には存在しなかった。
彼は外套の裾を整え、無言のまま、庁舎の重厚な扉へと歩み出した。彼の眉は微かに寄り、足取りからは、ほんの一瞬だけ迷いの色が滲んだように見えたが、それは朝霧の中の一過性の幻に過ぎなかったのかもしれない。
その動きには無駄がなく、また過剰な自信もなく、ただ、己のなすべき務めを当然のものとして受け入れる者の、静かな確信だけがあった。彼の姿は、長年にわたる官僚生活が生み出す典型的な人物像だった——帝国という巨大な装置の中で、己の役割を黙々と果たす、無数の歯車のひとつのような。
朝のガイアスは、少しずつ目を覚ましながら、そんな新たな歯車の到来を、何の疑問もなく受け入れようとしていた。帝都の巨大な迷宮は、このような新たな「部品」を日々飲み込み、そして同化させていく。それが千年の歴史を持つ官僚国家の宿命であり、ラグナル・フェーンもまた、その例外ではなかった——少なくとも、表面上は。
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