第十四章 月詠の泉と白蛇の試練

「月の雫」と「太陽の欠片」。二つの触媒を手に入れなければ、倉持栞さんを救い、あの忌まわしき「黒い影」を封じることはできない。残された時間は、次の月蝕まで。焦燥感が募るが、今は一つ一つ、着実に進むしかない。


守り手から得たビジョンは断片的だったが、「月の雫」が「聖なる泉の底で月光を浴びて結晶化した水晶」であることは分かっていた。私は暦さんに連絡を取り、そのような伝承が残る場所がないか調べてもらった。数日後、彼から興奮した様子の連絡が入る。


「見つけたかもしれんぞ、嬢ちゃん!『月詠(つくよみ)の泉』。古文書にそう記されている。特定の月の周期、満月の夜にしかその姿を現さない幻の泉だ。そして、その水は万病を癒し、清浄なる魂を持つ者には、月の女神の恩寵が水晶として授けられる、とある」


その「月詠の泉」は、「星見の丘」からさらに北へ数日かかる、深い原生林の奥深く、古代の巨石群に囲まれた場所にあるという。幸い、次の満月は数日後に迫っていた。


溝呂木さんと私は、最低限の休息を取り、新たな装備を整えると、すぐに出発した。道中は、以前にも増して過酷だった。「星見の丘」の汚染の影響か、森の木々は生気を失いかけ、本来なら温厚なはずの動物たちが、妙に攻撃的になっている。そして、夜になると、どこからともなく、あの金属質で獣じみた不快な匂いが風に乗って運ばれてくるようになった。影の追手が、すぐそこまで迫っているのかもしれない。


「まるで、世界全体が病にかかり始めてるみたいだな」

焚き火の前で、溝呂木さんが吐き捨てるように言った。彼の顔にも、隠せない疲労の色が浮かんでいる。


満月の夜、私たちはついに「月詠の泉」に辿り着いた。そこは、巨大な岩が環状に並び、古代の祭祀場を思わせる厳かな雰囲気に包まれていた。そして、その中央には、古文書の記述通り、月光を浴びて瑠璃色に輝く、神秘的な泉があった。水面は鏡のように澄み渡り、夜空の月と星々を映し出している。そして、その泉の底に、ぼんやりと光る何かが見えた。あれが「月の雫」に違いない。


私たちが泉に近づこうとした、その時。

泉の水面が静かに波立ち、中から一体の巨大な白い蛇が姿を現した。その鱗は月光を反射して真珠のように輝き、瞳は深い叡智を湛えたサファイアのようだった。それは、この泉の守護者なのだろう。威圧感はあるが、敵意は感じられない。


『何用あって、この聖域に足を踏み入れたるか、人の子らよ』


白蛇の声は、直接脳内に響いてくるような、不思議な響きを持っていた。


「私たちは、『月の雫』を求めて参りました。邪悪なる影を封じ、一人の女性の魂を救うために、どうかその力をお貸しください」

私がそう言うと、白蛇は静かに私を見据えた。


『月の雫は、清浄なる魂を持つ者にしか扱えぬ。汝らがそれに値するか、試させてもらうとしよう』


白蛇が鎌首をもたげると、泉の水面が揺らぎ、そこに様々な光景が映し出され始めた。それは、私の過去の記憶――「楽園」での孤独な日々、雨宮の狂気に触れた瞬間、そして、これまでの事件で直面してきた恐怖や葛藤。白蛇は、私の心の奥底にある闇や弱さを、容赦なく暴き出そうとしているかのようだった。


一瞬、心が揺らぎそうになる。だが、私は栞さんの苦しむ姿と、溝呂木さんの信頼のこもった眼差しを思い出し、強く自分を保った。


「私は、完璧な人間ではありません。心に闇も抱えています。ですが、それでも、救いたい人がいる。守りたいものがある。そのために、どんな困難にも立ち向かう覚悟があります」


私の言葉に、白蛇はしばらく沈黙していたが、やがて、そのサファイアの瞳に、わずかな笑みが浮かんだように見えた。


『よかろう。汝の覚悟、見届けた』


白蛇がそう言うと、泉の底で輝いていた光が、ゆっくりと水面へと上昇してきた。それは、手のひらに収まるほどの大きさの、透明で美しい水晶だった。月光を浴びて、内部から柔らかな瑠璃色の光を放っている。これこそが「月の雫」。


私がそっと手を伸ばし、水晶に触れた瞬間、清らかで強力なエネルギーが、身体中に満ち渡るのを感じた。それは、瑠璃色の羽根の力とはまた異なる、穏やかで、それでいて心の芯を強くするような力だった。


「ありがとうございます、泉の守り手よ」


私が礼を述べると、白蛇は静かに頷き、再び泉の中へと姿を消した。


しかし、安堵したのも束の間だった。

突如、月詠の泉の水が急速に黒く濁り始め、周囲の木々が不気味な音を立てて枯れ始めたのだ。そして、あの獣じみた不快な臭いが、先ほどよりもずっと強く鼻をつく。


「まずい!影の汚染がここまで……!」溝呂木さんが叫ぶ。


泉のあった場所からは、黒い瘴気のようなものが立ち上り始めている。聖域の力が、急速に失われつつあった。


「急がねば……」私は「月の雫」を懐にしまい、溝呂木さんと共に、その場を駆け出した。


背後で、何かが崩れ落ちるような音が聞こえた。振り返ることはできなかった。


「月の雫」は手に入れた。だが、残された時間は少ない。影の力は、私たちの予想を上回る速さで世界を侵食し始めている。「太陽の欠片」の入手は、さらに困難なものになるだろう。


私たちは、休む間もなく、次なる目的地――古文書に記された「火の神が眠る山」、活火山である「紅蓮岳(ぐれんだけ)」へと向かう。そこには、月の力とは対をなす、太陽の力が眠っているはずだ。

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