小夜のオカルト事件簿 File.1:夜香花
kareakarie
第一章 煤けた街の不協和音
煤けた色の雨が、アスファルトのひび割れを縫って、名もなき排水溝へと吸い込まれていく。傘をさす人間たちの無個性なシルエットが、滲むネオンの光を反射しては揺らめいている。こんな陰鬱な空模様は、べつに今日に始まったことじゃない。この街では、太陽の色さえ、どこか淀んでいるように感じられるのだから。
私、烏丸小夜(からすま さよ)は、古びた雑居ビルの軒下で雨宿りをしながら、スマートフォンで求人情報を眺めていた。時給の良い夜間の清掃、怪しげな治験モニター、曰く付きの美術品の鑑定補助――どれもこれも、私の食指を動かすには至らない。そもそも、金銭を得るためだけに労働するという行為自体が、どうにも腑に落ちないのだ。もっとこう、知的好奇心をくすぐるような、あるいは、ほんの少しだけ世界の歪みを垣間見れるような、そんな「仕事」はないものか。
「……くだらない」
思わず口から漏れた呟きは、雨音にかき消された。かつて、私は「楽園」と称される閉鎖されたコミュニティで育った。そこでは、薬草や毒草の知識、人体の構造、そして、人の心の脆さについて徹底的に叩き込まれた。それが何の役に立つのか、当時の私には理解できなかったし、今もって明確な答えはない。ただ、そこで得た知識と観察眼だけが、この灰色の現実を生き抜くための、ささやかな武器となっている。コミュニティが解体され、外の世界に放り出された時、私が最初に感じたのは解放感ではなく、むしろ途方もない倦怠感だった。そこでは、善も悪も、常識も非常識も、全てが曖昧で、薄っぺらいものに思えたからだ。
雨足が少し弱まったのを見計らい、私は軒下から一歩踏み出した。目的地は、馴染みの情報屋が営む古書店「昏倒書房(こんとうしょぼう)」。店主の暦(こよみ)さんは、見た目はただの昼行灯だが、裏社会の噂話から学術的な珍説まで、幅広く情報を取り扱っている。もっとも、彼が私に情報を流すのは、彼自身の歪んだ知的好奇心を満たすためと、私が時折持ち込む「珍品」――道端で見つけた毒キノコや、用途不明の化学薬品の残滓――に対する見返りだったりするのだが。
薄暗い路地を抜け、古書特有の黴とインクの匂いが漂う昏倒書房の扉を開けると、案の定、
「よう、
「別に。ただの暇つぶしです」
素っ気なく答えると、私はカウンターの隅に置かれた、埃をかぶった薬草図鑑を手に取った。パラパラとページをめくりながら、本題を切り出すタイミングを窺う。
「そういえば
「妙な噂ねえ。この界隈は、毎日が妙なことのオンパレードみたいなもんだが……具体的には?」
「……例えば、不可解な印とか、メッセージとか」
私の言葉に、
「ああ、あれのことかい? “虚無の落書き(グラフィティ)”」
虚無の落書き。その奇妙な響きに、私の眉が微かに動いた。
「ここ数週間、この街の特定の場所に、周期的に現れるらしい。ただの悪戯にしては手が込んでいるというか、気味が悪いというか……まあ、警察は器物損壊のチンケな事件としてしか見ていないようだがね」
「どんな印なんです?」
「それが、どうも毎回違うらしいんだ。ある時は幾何学模様のようだったり、ある時は古代文字を模したようなものだったり。ただ、共通しているのは、それらが酷く不気味で、どこか……そう、人の精神を逆撫でするような不快感を与えるってことだ」
「……塗料は、何を使っているか分かりますか?」
「さあね。ただ、普通の市販品じゃなさそうだという話は聞いたことがある。妙に発色が良くて、しかも、雨に濡れてもなかなか落ちないらしい」
私の指先が、無意識に写真の表面をなぞる。なるほど、これは確かに、ただの悪戯にしては手が込んでいる。そして何より、これらの図形からは、ある種の「意図」のようなものが感じられた。それは、破壊衝動でもなければ、自己顕示欲でもない。もっと冷たく、計算された……まるで、何かを「汚染」しようとするような、悪質な意志。
「興味が湧いたかい?」
「少しだけ。……その落書きが現れる場所と周期に、何かパターンは?」
「それなんだがね」と、
満月か新月。それは、古来より人の精神に影響を与えると言われている。迷信だと切り捨てるのは簡単だが、こういう不可解な事象においては、そういった要素も無視できない。
「その落書きを見た人間で、何か変わった反応を示した者は?」
「さて、そこまでは……ただ、あの落書きを長時間見つめていると、気分が悪くなったり、妙な幻覚を見たりするという話も、まことしやかに囁かれているよ」
幻覚。それは、毒物による中毒症状の一つでもある。もし、あの落書きに使われている塗料に、何らかの精神作用を引き起こす物質が含まれているとしたら?
「……分かりました。少し、調べてみます」
「ほう。
外は依然として、小雨が降り続いている。私はフードを目深にかぶり、街の喧騒の中へと歩き出した。虚無の落書き。その名が、頭の中で反芻される。一体誰が、何のために? 単なる愉快犯か、それとも、もっと深い闇が潜んでいるのか。
どちらにしても、私の退屈な日常に、ほんの少しだけ刺激を与えてくれそうな予感がした。そして、そういう予感は、大抵当たるものなのだ。私は、煤けた街の片隅で、静かに口角を上げた。
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