逆さの家
生字引智人
逆さの家
「お前ってさ、本当に気が利かないよな」
帰宅するなり、英司は妻にそう言い放った。
買い忘れた味噌、畳まれていない洗濯物、テレビの音量。
今日も「家の中にしか向けられない怒り」が、英司の口から滑り出る。
その数時間前、彼はオフィスで同僚のミスを、笑顔でフォローしていた。
「いやいや、大丈夫!誰でもあるって、気にしないで」
自分のスケジュールが狂っても、にこやかに頭を下げた。
駅で会った旧友にも、にこにこと愛想よく、
「また会えてうれしいよ、今度、家に遊びに来てよ」とまで言っていた。
家に帰ると、彼は家族にだけ苛立ちをぶつける。まるでそこが、自分の毒を吐き出すための場所であるかのように。
妻は黙っていた。
黙って味噌を買いに行き、洗濯物を畳み、テレビの音を下げた。
子供たちはすでに父の帰宅時間に部屋へ逃げ込むようになっていた。
ある夜、英司は突然こう言った。
「家族ってさ、何でも言える関係じゃん?」
その言葉に、妻はゆっくりと首をかしげた。
「それ、本当に“言っていいこと”と“言ってはいけないこと”を、分かってる人の言葉?」
初めて妻が返したその言葉に、英司は返す言葉を失った。
数日後。
英司が帰宅すると、家は静かだった。
机の上には書き置きが一枚。
《あなたは、外の人には気を使い、丁寧な言葉と笑顔を欠かさないのに、
家の中では、私たちには遠慮なく不平や怒りをぶつけてきましたね。
結局、あなたにとって大切なのは“外の評価”であって、
私たちはただ、安心して八つ当たりできる存在に過ぎなかったのでしょう。
そんな場所に、もう私たちの居場所はありません。
あなたの大切な“外の世界”で、どうか思う存分、いい人でいてください。》
英司はしばらく黙ってその紙を見つめていたが、やがて呟いた。
「気を使う相手を、間違えてた。
ほんとうに気を配らなきゃいけなかったのは、毎日顔を合わせてた家族だったのに…。
なんで、もっと早く気づけなかったんだ……なんで…。」
英司が夢にまで見たマイホーム…。
今は……ただの殺風景な箱に変わっていた。
逆さの家 生字引智人 @toneo55
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