特命 / 2011年1月12日
特命 / 2011年1月12日
国家戦略室の扉を開けると、いつもの整然としたデスクの上に、異質な存在感を放つ分厚いファイルが鎮座していた。見慣れないその物体に一瞬、斉藤参事官の忘れ物かと目を凝らしたが、表紙に目をやると、黒々とした文字で「東北沖地震に関する調査報告書(第一次)」と確かに印字されている。斉藤参事官の私物である可能性は低い。ファイルを手にとって見ると、ずっしりとした重みが手のひらに伝わってきた。過去の膨大な被害記録や報告書の数々を、斉藤参事官が丹念に読み解き、再構築したものだろうか。そんな推測を巡らせながら、何気なくファイルの綴じられた部分を繰ってみた。目に飛び込んできたのは、整然と並んだ過去の地震データ、詳細な地盤調査の結果、そして著名な専門家によるであろう被害予測の分析だった。しかし、読み進めていくうちに、眉がひそめられていくのを自覚した。そこに記されている地震の規模を示すマグニチュードの数値、そして想定される津波の高さは、自身の記憶にある現実のそれよりも、遥かに小さく、まるで矮小化されているように感じられた。(やはり、この2011年という時代における科学的な認識では、あの未曾有の巨大地震の真の脅威を、完全に捉えきれていないのだ……)報告書に没頭するほどに、拭い去れない危機感が胸の中で渦巻いた。この根深い認識のずれを埋め合わせなければ、これからどんなに周到な対策を講じたとしても、全てが絵に描いた餅に過ぎないだろう。焦燥感にも似た感情が押し寄せ、報告書を前にしながらも、なかなか次のページをめくることができない。そんな膠着状態の中、国家戦略室の重い扉が開かれ、菅直人総理大臣が数名の秘書官を引き連れて、足早に部屋へと入ってきた。総理は、室内にいる一人ひとりに軽く会釈をしながら、まっすぐに私のデスクへと近づき、低い、しかし明確な声で言葉を発した。『先週の君の話だがね、各方面に念入りに確認を取ってみた。最初は信じられないような話だったのだが、驚くべきことに、君の指摘と符合するようなデータがいくつか見つかったのだ。特に、日本海溝のアスペリティに関する最新の研究論文は、君が言った時期と規模に近い巨大地震発生の可能性を、明確に示唆している。』まさか、一週間という短い時間で、ここまで迅速かつ徹底的な調査が進められているとは、想像すらしていなかった。総理の言葉は驚愕のあまり、息を詰まらせた。その並外れた行動力に、改めて只者ではない凄みを感じ、言葉を失い、ただ立ち尽くすばかりだった。私の沈黙を肯定と捉えたのだろうか、『それでだ』と総理は言葉を続けた。『君の持つその特異な知識と、これまでに培ってきた経験を、もっと具体的に国の防災対策に活かしたいと考えている。そこで、内閣直属の<特命防災担当>という新たなポストを新設し、君にその責任者として、今後の対策を陣頭指揮してもらいたい。』まるで唐突に頭上から巨大な岩が落ちてきたかのような、予期せぬ申し出に、一瞬、思考回路が完全に停止した。まさか自分が、国の命運を左右する防災対策の舵取りを任されるなどとは。想像を遥かに超える重責に、背筋が凍り付くような、身が引き締まる思いがした。「……謹んでお受けいたします」かろうじて絞り出した言葉は、掠れて自分の耳にも小さくしか聞こえなかった。それ以上の言葉は見つからず、ただ総理に向かって、深く、深く頭を垂れた。こうして、2011年1月12日、内国家戦略室・特命防災担当の責任者として、未曾有の大災害に立ち向かうという、想像もしていなかった過酷な運命を歩むことになった。与えられた時間は、わずか2ヶ月。限られた時間の中で、未来の知識という唯一の武器を最大限に駆使し、ありとあらゆる手段を講じて、来るべき巨大な災厄に備えなければならない。まず、最初に取り掛かるべきは、政府、そしてこの国の防災に対する意識そのものを根底から改革することだ。従来の、どこか楽観的な想定を遥かに凌駕する、想像を絶する巨大地震と、それに伴う壊滅的な津波の脅威を、彼らに現実として認識させ、抜本的な対策を講じさせる必要がある。そのためには、感情論ではなく、揺るぎない科学的な根拠に基づいた、正確かつ詳細な情報を提供し、国民全体の深い理解と、積極的な協力を得ることも不可欠となるだろう。そのためまず手始めに、個人的に保持している、2ヶ月後の日本を襲う巨大地震と津波に関する、詳細な震源地の情報、地震の規模、各地への津波の到達予測、そして、最悪の事態を引き起こす可能性のある福島第一原子力発電所の事故に関する情報など、多岐にわたるデータを整理し、国家戦略室のメンバー全員に共有することにした。そして、それらの、この時代の人々にとっては信じられないような情報を基に、全く新たな視点に立った、実効性のある防災対策の基本計画を策定する必要がある。しかし、未来の情報を、あたかも予言者の言葉のようにそのまま提示したところで、この時代に生きる人々に、果たしてどれだけ真剣に受け止めてもらえるだろうか。科学的な根拠を示すことは当然として、彼らの既存の知識や理解の範疇で捉えられる言葉を選び、冷静かつ論理的に、その必要性を丁寧に説明していく努力が不可欠となるだろう。その日の夕刻、国家戦略室のメンバーを招集し、最初の会議を開いた。斎藤参事官をはじめとして、各省庁から選抜されて集められたであろう、精鋭の官僚たちが、固い表情で言葉を待っている。重苦しい静寂が、会議室全体を覆っていて、誰もが私に視線を合わせ、早く口を開いてこの緊張状態を和らげてくれと願っているようだった。「皆さん、本日より、私は内閣府特命防災担当の責任者として、今後のわが国の防災対策を指揮することになりました。皆さんの卓越した知識、経験、そして何よりもご協力なくしては、この重大な任務を遂行することは到底できません。どうか、ご理解とご支援を賜りますよう、心よりお願い申し上げます」そう、わずかに声を震わせながら切り出すと、私は用意してきた資料を手に取り、言葉を続けた。「これから皆さんと共有するのは、私が個人的に長年にわたり収集し分析してきた、日本で発生する可能性のある、未曾有の巨大地震と津波に関する、極めて詳細な情報です。皆さんにとって、到底信じがたい内容が含まれているかもしれませんが、今後のわが国の防災対策を根本的に見直し、より強固なものとする上で、極めて重要な情報であると、私は確信しております」そう言って、事前に周到に準備してきた資料を、会議室のメンバー一人ひとりに丁寧に配布した。そこに記されていたのは、2011年3月11日に発生する東北地方太平洋沖地震の詳細な震源地の情報、地震の規模を示すマグニチュード、津波が各地に到達する正確な予測時刻と高さ、そして、その巨大地震が引き金となって発生する、福島第一原子力発電所の壊滅的な事故に関する、生々しい情報など、多岐にわたるものだった。資料を受け取った官僚たちは、一様に目を丸くし、そこに書かれている信じがたい内容の異常さに、言葉を失い、ただ資料に釘付けになっている者もいた。「これは……一体、どういうことでしょうか……」斎藤参事官が、資料から顔を上げ、信じられないといった表情で、乾いた声で呟いた。彼らが驚愕するのは無理もないと思って冷静に見つめながら、努めて平静な声で答えた。「これは、あくまでも現時点における可能性の一つとして、今後の具体的な対策を検討するための、いわば叩き台となるものです。しかし、過去の膨大な地震に関するデータ、最新の科学的な研究結果、そして独自に入手した情報などを総合的に分析した結果、この可能性は決して無視できるものではありません。むしろ、最悪の事態を想定し、あらゆる角度から有効な対策を講じる必要があると考えています」会議室には、先ほどまでの緊張感に加えて、さらに重苦しい沈黙が深く垂れ込めた。まだ、この恐るべき未来を知らない国民たち。そして、その未来を知る者との間に存在する、巨大な認識の隔たりは、あまりにも明らかだった。しかし、ここで諦めるわけにはいかない。今日この会議を皮切りに、政府全体の防災意識を徹底的に改革し、来るべき大災害から、一人でも多くの国民の命を救うために、私は持てる全ての知識と経験、そして情熱を注ぎ込む覚悟だった。そのためには、まずこの国家戦略室のメンバーからの信頼を勝ち取り、共に危機意識を共有し、一枚岩となる必要があるが果たしてそれを達成することはできるのか、そんなことを考えていると斉藤参事官が声を上げた。『どうにも、あなたは菅総理と仲が良いようで。それは結構なんですけど、政治主導を言う割には官僚からの出向組がやたらとこのチームには多いですよね。』と悪態をついた。やはり、官僚主導から転換したことで官僚は嫌な思いをしているのだろうかと思いつつ、「今はこの報告書をもとに急ピッチ、できれば来月までに防災減災を進めなければいけない。地震はいつ起きるかわからない、明日かもしれないし百年後かもしれない。けれど一つ言えるのは、早く進めれば進めるほど、助かる命は増えるんです。政治的な立ち位置や戦いとは別で、国がまとまってやるべきなんですこれは。」と目線を合わせて落ち着いた口調で言った。斉藤参事官の気持ちもわかるだけに、あまり強くは言えなかった。斉藤参事官は不貞腐れた顔をしながらも、同意しているようだった。そして、短い会議は終わった。
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