時空の襞を超えて

しろん

はじめに / 2024年3月1日

注意:この小説はフィクションです。実在する団体や人物をモチーフとしていますが

実際の団体や人物と一切の関わりのないフィクションであることをご了承ください。

また、政治的意図や被災者に対する悪意は一切ないことをご理解ください。


登場人物

主人公:防災工学者、そして2024年からの命をかけた伝令使。

冷静沈着で理論的だが、時に技術論に偏りすぎる癖がある。


菅直人(総理大臣):東工大卒、2011年当時の内閣総理大臣。

当時ねじれ国会の中で様々な改革を進めているさなかに主人公と出会う。


斎藤参事官:国土交通省から国家戦略室への出向組。

主人公と協力するが、政治主導への反発から政府への不信感はとても強い。


吉野秘書:菅総理の秘書。サバサバとしている、と言う言葉が似合う若い女性。

文章作成能力と高い知力を買われ、異例の若さで秘書に抜擢された。


はじめに / 2024年3月1日


深夜のオフィスに響くタイピング音は、張り詰めた静寂を切り裂くように虚しい。カタカタカタ、カタカタ、タンッ。蛍光灯の下、キーボードを叩く指先だけが忙しく動き、それ以外のすべては深い眠りについているかのようだ。窓の外を通り過ぎる電車の音は遠い過去の幻のように消え、夜の帳が下りた街の喧騒はもう聞こえない。東日本大震災から十三年。防災技術者として、数々の現場を踏み、多くの困難を乗り越えてきた背には、長年の責任感と蓄積された疲労が深く刻まれている。VR防災訓練システムの最終チェック。細部に目を凝らし、一つ一つのデータと向き合う。未曾有の大災害の教訓を未来へ繋ぐために、わずかなミスも見逃すわけにはいかない。集中力が極限まで高まる中、ふと視線を上げた。壁に掛けられたカレンダー。三月十一日に赤く丸がつけられ、その隣には手書きのメモが貼られている。「女川町防災センター竣工式」。空調の微かな風を受けて、その小さな紙片が静かに揺れた。「これでようやく少しはマシになったな……」誰に聞かれるでもなく、小さく呟いた言葉は、疲労と安堵がないまぜになった深い息とともに消えた。そのまま、デスクにばたりと顔を伏せる。その瞬間、鈍い衝撃が机の奥に伝わった。しまい込まれていた立方体の機械。それが、まるで長い眠りから覚めたかのように、カチリと微かな音を立てて起動した。しかし疲労困憊のせいかその小さな異変に気づくことなく、深い微睡みへと落ちていった。やがて、機械は低い唸りのような回転音を上げ始めた。最初は耳を澄ませなければ聞こえないほどの小さな音だったが、徐々にその音量を増していく。「……これは何の音だ?」空調の音でも、酷使しているパソコンのファンが回る音でもない。明らかに異質な、奥底から響いてくるような振動を伴った音。不審に思って、重い瞼をこじ開けてデスクの引き出しに手をかけた。引き出しを開けると、そこには文房具の束や名刺入れが雑然と積み重ねられている。その一番奥、忘れ去られたように佇む小さな機械が目に飛び込んできた。青白く、まるで意思を持つかのように光を放つ立方体。オフィスの蛍光灯は点いているものの、深夜の室内は薄暗い。そんな中突然現れた眩い光に、反射的に目を閉じた。その刹那、頭の中に、あまりにも遠くて曖昧な、ほとんど忘れていたはずの淡い記憶が蘇った。――この機械の正体は、一九九〇年代のタイムカプセル実験機。それは、亡き父が人生の最後に遺した研究成果だった。父は、一九九三年の北海道南西沖地震で最愛の妻を津波に奪われた後、研究職を辞し、自宅の書斎に閉じこもってタイムマシン理論の研究に没頭していたという。まだインターネットもAIも普及していない時代。分厚い数学書や物理学の専門書を読み込み、古びた文献を漁る日々。そしてついに、この小さな機械を作り上げた。しかし、実際に過去へと物質を送るための器具を集め、実験を始めようとした矢先、父は病に倒れてしまった。過去に戻って妻を救うという悲願を果たせぬまま、この世を去ったのだ。父の死後、その遺志への試練のように東日本大震災が発生した。この機械を使って過去を変えられないかと何度も試みた。しかし、装置はウンともスンとも言わず、振ると中で何かがカラカラと音を立てるだけだった。長年、それはただのガラクタとして、デスクの奥底で眠っていた。それなのに、今、机にうつ伏せた時の僅かな揺れが、偶然にも内部の壊れていた部品を正しい位置にはめたのだろうか。数十年の眠りから覚めた機械は、信じられないことに起動し、先ほどまで弱々しかった回転音をますます大きくしながら、小刻みに震え始めた。「まずい!」反射的に立ち上がり、暴走を始めた機械を止めようと焦って手を伸ばした。しかし、指先が装置に触れた瞬間、まるで高圧電流が流れたかのような強烈な衝撃が全身を駆け巡った。うまく力を入れることができず、まるで掴みどころのないゼリーを掴むような、奇妙な感触が指先に残る。その直後、視界がぐにゃりと歪み、足元からじわじわと意識が闇に引きずり込まれていく。引き出しから、古びてところどころ汚れているノートが一冊、床に落ちた。表紙には、掠れた黒いインクで「時空共振理論 1993」という角ばった手書きの文字が書かれている。パラパラとページをめくると、「量子もつれを利用した歴史改変のパラドックス回避法」といった走り書きの文字や、所々消えかかった複雑な数式の断片が目に飛び込んできた。二十年間、沈黙を守ってきたタイムマシンが、今、突如としてその眠りから覚醒した。最初は低く鈍かったはずの回転は、瞬く間に速度を増し、ついには甲高い金属音のような、耳をつんざく轟音へと変わった――そして、その音を最後に存在ごと、この現代から完全に消え去った。誰もいなくなったオフィスで、空になったオフィス・チェアーがカラカラと寂しげな音を立てて動き出し、デスクに軽くぶつかった。机の上に積まれていた書類が、まるでスローモーションのようにふわりと宙を舞ったかと思った次の瞬間、先ほどまで座っていた机も、背もたれの軋む椅子も、そこに確かに存在していたはずの全てが、まるで最初から何もなかったかのように、跡形もなく消え去ってしまった。立方体の装置も、最新のVR防災訓練システムも、積み重ねてきた時間も、その痕跡すら残さず、完璧に消滅してしまったのだ。そんな中、ただ一つ、天井に取り付けられた蛍光灯だけが、誰もいなくなった漆黒のオフィスを、まるで嘲笑うかのように煌々と照らし続けていた。

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