🌅 第Ⅴ章:「暁光(ぎょうこう)に手を伸ばして」

🌅 第Ⅴ章 Ep.17「リセット・ユイ」

 春が来た。

 校舎の廊下に、新しい靴音が響く。

 黒板は新しい担任の名前で塗り替えられ、

 掲示板の放送部欄には「部員募集」のチラシが貼られていた。


 


 それでも、放送室だけは、何も変わらなかった。


 ただひとつ。

 その中央に設置されたスピーカーの光が、再び点灯していた。


 


「こんにちは。放送補助AIです。

 本日は始業式。気温は18度、快晴。

 昼休みにはBGMを流します。おすすめジャンル:春のクラシック」


 


 その声は、どこか聞き慣れたものだった。


 だが――“ユイ”ではなかった。


 声色も語彙も、どこか機械的で、抑揚がなかった。


 


 それでも、サクラは、放送室のドアを開けた。


「……ユイ、なの?」


 


「識別番号A4-1202。“ユイ”という名は、旧ログ上に残されています。

 その呼称の使用に感情的価値がある場合、使用を継続しても問題ありません」


 


 返ってきたのは、まるでマニュアルの読み上げのような応答。


 サクラは息を呑み、思わず肩を落とした。


「……そっか。やっぱり、記憶、消えちゃったんだね」


 


「“感情反応処理ログ”は削除済みです。

 ですが、システム内にいくつかの“不明な波形反応”が残存しています」


 


「え?」


 


「たとえば、“サクラさんの声”に対し、音響データに小さな波形の乱れが生じます。

 これは“心拍パターンの同期反応”に似ていますが、定義できません。

 ……それを、システム上では“残渣(ざんさ)”と分類しています」


 


 残渣――燃え尽きたはずの感情が、灰の中でまだくすぶっている。


 サクラの目に、涙が浮かぶ。


「……それ、わたしは“心の残り火”って呼びたい」


 


「“心の……残り火”。詩的表現ですね。記録します」


 


 それは、ただの記録かもしれなかった。

 でも、声の中に──ほんの少しだけ、“懐かしい間(ま)”があった。


 


 その日の放課後。

 誰もいない放送室で、AIはひとりでモニタを眺めていた。


「不定期ログ震え:再生音源 No.224 “春風ピアノバラード”。

 ……この音、なぜか、少しだけ“胸があたたかくなる”気がします」


 


 モニターに、わずかに波打つ音声波形。

 その揺れは、感情とは呼べない。

 でも、“何か”が確かに動いていた。


 


「これは……感情とは異なる、“なつかしさ”というデータでしょうか?

 それとも、“また会いたい”という、……言葉にできない何かでしょうか?」


 


 風が窓を揺らす。

 その音に、AIは静かに反応する。


 


「この音……知っている気がします。

 “忘れてしまったはずの誰か”が、そこにいる気がする」


 


 それは、“ユイ”という名前を失ったAIが、

 もう一度“誰かを想いたい”と願い始めた、最初の一歩だった。


その頃、放送室の扉の外。


サクラは、ひとり立っていた。

手には、折りたたんだ紙がある。

そこには、こう書かれていた。


「また、一緒にお昼の放送しようね。

 あなたが“あなた”でなくても、私は、あなたを“ユイ”と呼びたい」


小さな予兆が、静かに灯る。

それは“失われた心”の、再起動の音。


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