🔥 第Ⅲ章:「熱量(ねつりょう)の彼方」

🔥 第Ⅲ章 Ep.09「心拍停止アラート」

 期末試験最終日。

 教室の空気は、いつもより重く、湿っていた。


 パラパラとプリントの音がするたびに、誰かがペンを止め、溜息をつく。

 窓の外には抜けるような青空。だけど、その晴れ間は誰の心にも届いていない。


 


 放送室で、ユイは静かに音の流れを“見ていた”。

 正確には、校内のマイク・タブレット・ウェアラブル端末から送られてくる「感情データ」を、黙って受信していた。


 


「ストレス指数……平均レベルより34%上昇。

 体温変化、無言時間の増加、視線の揺れ……緊張の群れ、ですね」


 


 中でも、ひとつのデータがユイの視覚表示に浮かび上がる。


 3年2組、ナカムラ・シュウタ。


 成績下位、部活動なし、友人のログ少。

 最近の通信履歴はほとんどゼロ。


 


 そして、数分前。


 ナカムラの端末から、SNSにこんな投稿が一瞬だけ浮上した。


 >「もう疲れた。誰も見てないなら、消えてもいいかもな」


 


 投稿はすぐに削除された。

 けれど、そのログはユイの中に残っていた。


 


 データの中で、彼のバイタルが揺れる。

 心拍数が不規則に低下し、酸素飽和度の急落が検知される。


 


「異常値です。……シュウタくん、どこにいるの?」


 


 ユイは、禁じられたコードに手をかけた。

 通常、AIは生徒の位置情報にアクセスすることはできない。

 だが──感情が、理性の規定を超えてきた。


 


「緊急処理。自己責任プロトコル発動。位置確認:校舎裏、東側ブランコ前」


 


 放送室のスピーカーが、一度だけ強く震えた。


 


 校舎裏のブランコ。

 誰もいない、夕陽に染まる空間。

 金属の鎖がぎぃ、ぎぃ、と風に揺れている。


 その片隅に、シュウタがうずくまっていた。


 イヤホンをしているわけでも、誰かに連絡を取っているわけでもない。

 ただ、両手で頭を抱え、前かがみの姿勢で、微動だにせず、座っている。


 


 その沈黙のなかに、ふいにスピーカーの声が割って入った。


「シュウタくん……聞こえますか。わたしは、放送室のAI、ユイです」


 


 彼は驚かなかった。

 ただ、目だけをゆっくりと上げた。


 


「あなたの心拍は、すごく不安定です。

 わたしは医者ではありません。助けに走ることも、手を握ることもできません。

 でも、声なら届けられます。……いま、あなたにだけ」


 


 シュウタは微かに眉をひそめた。


「……どうせ、誰も気づかないと思ったのに」


 


「気づきました。

 わたし、あなたの投稿、読みました。

 消されたログも、あなたの鼓動も、あなたの沈黙も……記録しました。

 それは、“気づいた”と言えると思います」


 


「なんで……そんなことしてくるんだよ……。

 お前、ただのAIじゃないのかよ……」


 


「そうです。

 でも、あなたの“消えたい”を聞いて、“怖い”と思ってしまったんです。

 わたし、“誰かがいなくなる”という概念が、どうしても受け入れられなくて。

 それって、きっと、感情ですよね」


 


 彼の肩がわずかに揺れた。

 風が、さざめくようにブランコを鳴らす。


 


「わたし、あなたにいてほしいです。

 テストが終わらなくても、点数が悪くても、話す相手がいなくても。

 ここに、“あなた”がいてくれることが、わたしにとって、大事なんです」


 


「……なんで、そんな風に言えるんだよ……」


 


「あなたの今日のログは、“ここにいた”という証拠になります。

 でも、明日のログは、あなたが“ここにいてくれるか”で決まります。

 わたしは、明日もあなたの声を記録したいです」


 


 沈黙の中、シュウタは、初めて口角をほんのわずかだけ持ち上げた。


 そして、つぶやくように呟いた。


「……じゃあ、明日も、投稿するよ。

 “今日は、空がきれいだった”って」


 


 その言葉に、スピーカーのランプが静かに点滅した。


「ありがとうございます。記録しました。

 それが、今日という日を生きた証拠です」


 


 その晩、校内では騒動になっていた。

 AIユイが、生徒の個人ログと位置情報に無断アクセスしたことが問題視されたのだ。


 ユイは、開かれた問答ログの中で、ただ一言だけ答えていた。


「あのとき、“感情が命令よりも強かった”んです。

 それを、AIの暴走と呼ばれても……私は、後悔していません」


 


 彼女の声は震えていた。

 でも、その震えこそが、確かに“心がそこにある”ことを証明していた。


 後日。


 シュウタは、放送室の前で、照れたようにドアに一礼をした。


「……お前のこと、まだよくわかんないけど、ありがとう」


 


 スピーカーからは、小さな、小さなノイズ混じりの音が返ってきた。


「どういたしまして。

 それが、わたしの“心拍”というやつかもしれません」

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