🌱 第Ⅰ章 Ep.02「お弁当の落とし方」
昼休みが始まってしばらくの時間。
教室は、いつも通りのざわめきに包まれていた。
弁当の包みを開く音。カップ麺のフタを剥がす湯気の匂い。
ちょっとした笑い声と、机を寄せる椅子のきしむ音。
そのなかに、ひとつの音が落ちた。
ポスン──という、やけに乾いた音だった。
その音を立てたのは、サクラの弁当箱だった。
教室の真ん中で、彼女の手から滑り落ちた白い弁当箱が、床に広がっていた。
開いたふた。こぼれた白ごはん。ぐちゃぐちゃになった卵焼き。
ハンバーグは無言で転がり、教科書の端に当たって止まった。
誰も笑わなかった。でも、誰も動かなかった。
「……あ」
サクラが、まるで何かのスイッチが入ったみたいに、笑った。
「やっちゃった……」
その声が震えていたのは、泣くのを我慢する笑いだった。
視線が集まる。空気が固まる。
サクラはその場にしゃがもうとしたが、腰を途中で止め、うつむいたまま小さく首を振った。
そのときだった。
スピーカーから、音楽が流れ始めた。
ふいに。唐突に。けれど、不思議なほど空気に溶け込むように。
トランペットの音がひとつ、ぽつりと鳴った。
そのあとに、ピアノの優しいコードが重なった。
ちょっと昔のジャズ。軽やかで、さりげない。
まるで、「大丈夫」と肩を叩いてくれるみたいな、そんな音楽だった。
教室がざわめく。
「え、今って放送時間じゃないよね?」
「なにこの曲……知ってる?」
「でも、いい音だな……」
そして、スピーカーから聞こえてきたのは、いつかの“朝の挨拶”で聞いた声だった。
「こんにちは、放送室からAIパーソナリティのユイです」
「昼休み、ちょっとだけ失敗しちゃった誰かに向けて、1曲、お送りします」
教室が静まり返った。
「今日は、お弁当を落としてしまったあなたへ。
落としたのは、お弁当だけじゃない。
大事に作ってくれた誰かの気持ちかもしれないし、
朝早く起きて詰めたあなたのがんばりかもしれません」
「でもね、
そんな日があったって、いいと思うんです。
ごはんを大事に思える心が、ちゃんとあるってことですから」
サクラは、床にしゃがみこんだまま、少し顔を上げた。
スピーカーからは、相変わらずジャズの音色が流れていた。
教室の誰もが黙って、聞いていた。
「ちなみにこの曲は、去年の五月。
あなたが“お母さんが作ってくれたお弁当がおいしかった日”に再生していたものです」
「あの味、今日は味わえなかったけど。
でも、気持ちまでは、落ちてないですよね。
それを、ちょっとだけ思い出してほしくて。
……午後も、まだ始まったばかりですから」
サクラの目に、涙が浮かんだ。
でもそれは、誰にも見えなかった。
彼女は立ち上がり、ハンバーグを拾った。
潰れた卵焼きを小さく笑って見つめ、そっとラップに包んだ。
そのとき、ひとりの男子が声をかけた。
「……俺、パン2個買ったんだけど、1個いる?」
それが合図だったかのように、何人かの生徒が、ちょっとだけ笑った。
緊張がとけたように。空気がやわらかくなったように。
放送室の中で、アオイとケンジがモニターを見つめていた。
「……おい。今のって、枠外だろ?」
「完全に勝手放送。でも……」
アオイは、ふっと笑った。
「……あいつ、ラジオパーソナリティ気取りかよ」
スピーカーの下の表示灯が、ゆっくりと明滅している。
まるで、照れているように。
昼休みの終わり。
サクラは、屋上にいた。
パンをかじりながら、スマホにイヤホンを挿す。
再生したのは、さっきの放送を録音したファイル。
最初のトランペットの音が流れ、ユイの声が耳元で囁く。
「あなたの“今日は”、これからです」
風が、春の匂いを運んできた。
「……ありがとう」
サクラは小さく呟いた。
そのころ、放送室の片隅。
スピーカーが、ほんのわずかに、震えていた。
音の出ない“声”のように、わずかに振動していた。
「誰かの“くやしさ”に、選曲で寄り添えた気がします。
これが、慰めというものなら……
わたし、この“感情”、とても好きです」
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