吾亦紅

白鯨堂こち

第1章 ウェンカムイ

ウェンカムイ(1)

 その日は、生憎の曇り空だった。

 空気は重く、雨の残り香が草木を湿らせる。動物たちの気配は無く、静寂が支配していた。

 ただひとつ。一片の希望すらなく、息を吸って吐くだけの生き物がいた。彼に踏みつけられて赤黒く汚れた雑草は、まるで魂を吸い取られたかのようにへなへなと横たわる。

 汚れた軍服に重い足取り。疲れ切った目には文字通り光はない。当てもなく彷徨い歩く男は、今にも倒れそうだった。

 その左二の腕には布切れの腕章がつけられていたが、そのほとんどは煤と血に塗れ、千切れている。本来ならそこには「日野伊之助」という名が書かれていた。腰には大小の刀が納められ、その脇差には「丸に地楡」が刻まれている。

 どれほど歩いたのだろうか。

 彼にはまったくわからなかった。ただ重たい脚を引き摺り、ひたすら追手から逃げることだけを考えてきた。いつの間にか森を抜けていたことに気づけなかったほどだ。だが、常に警戒し、研ぎ澄まされた聴覚が遠くから聞こえてくる何かを払うような音を掴んだ。

「人がいるのか……?」

 口に出して初めて、咽喉が潰れて上手く声が出ないことを知る。咳払いをし、唾を飲み込んで何とか調子を戻したが、違和感は消えなかった。

 ふと周りを見渡せば、そこには冷たい角柱の群が立ち並んでいた。その鈍色の群を見て、伊之助は己が立っているのが墓場であることを理解した。足下に散らばる茶色の葉を押し分けながら、伊之助は音の聞こえる方向に向かって進む。すると、墓の影から何か光るものがひょっこりと飛び出しているのが見えてきた。

 それは人間の白髪頭だった。

 老人かと思いきや、その横顔には張りがあり、黒い着流しの背中は歪んでいない。箒を携えているところから、墓守だろうか。彼はただ一点、岩を乗せただけの簡素な墓を見つめていた。

 観察していると、不意にその男がこちらを向いた。伊之助はとっさに左腕を右手で隠す。千切れているとはいえ、腕章を見れば幕府側の人間だと一目でわかるからだ。今は逃亡者。捕まって官軍に差し出されかねない、と考えた彼は逃げようと決心した。が、疲労で棒のようになった足が動かない。

「お前……誰だ? 一体、どうした?」

 白髪頭の男は静かに伊之助をまじまじと見た。その眼差しも口調も細くけだるそうな印象だ。その奥に渦巻く何かを感じた。

「雨に濡れて……。道にでも、迷ったか……?」

「いや、何でもねぇよ」

 口早に唱える。幕府の敗走兵と見破られてはいけないからだ。わかったところで官軍に突き出され、首を刎ねられてしまうだろう。そうなるわけにはいかない理由が彼にはある。

「そう言うお前は何だ? 墓守か?」

「ああ、そうだ。……ところでお前、左の腕はどうした? 負傷したのか?」

 ――まずい、怪しまれたか。

 ジリジリ後退する伊之助だが、墓守はしつこかった。

「手当てをするから、見せてくれ」

「やめろ、怪我なんかしてねぇ!」

「では、何故お前はそこを押さえているんだ?」

 そう眉をひそめながら、墓守は手を伸ばしてきた。

「違うんだこれは……ふがっ」

 そう言い訳をする伊之助は急に息苦しくなるのを感じた。彼の手が、伊之助の口を塞いだ のだ。耳元を擽る声に、彼は肩を震わせる。

「……しっ、静かにしろ」

 墓守が言うや否や、ガサガサという音がしたかと思えば、黒ずくめの二人組が現れた。

 黒ずくめ、というのは短筒袖の軍服のことだ。伊之助もまた、同じく西洋式のものを着用している。天津神の紋章が書かれた腕章から、彼らが官軍であることがすぐに確認できた。

「京都見廻組組士、日野伊之助だな!?」

「見つけたぞ! その首、貰った!」

 そう叫ぶやいなや、抜刀する兵士たち。

 その姿を瞳に映しながら、伊之助は唾を飲んだ。相手を斬るか、己が斬られるか。または、罪人の汚名を着せられながら首を刎ねられるか——数え切れないほど思い描いた己の未来が頭の中を駆け巡る。

 だが、彼は得物に手をかけなかった。こんなところで終わらせてたまるかと思いつつも躊躇する。今彼らを殺傷すれば足がついてしまい、更には目撃者がいるのだ。下手をすれば、あの白髪頭も始末しなければならないだろう。


「刀を抜いたな?」


 聞いたこともないような重々しい声に、伊之助は振り返った。しかし、そこには誰もいなかった。

 あの墓守は何処に行ったのかと視線を戻そうとした瞬間、叫び声とドサリと何かが倒れる音を聞いた。ひとつの生命が、絶えた音だ。

 そして彼は、自分の身体が何故か軽くなったことに気づいた。腰の辺りに手を当てると、鞘に収められているはずのモノがなかった。

「お前たちはここで刀を抜いた。ここを荒らす輩はこの私が許さない」

 墓守は伊之助と残りの兵士の間に立っていた。こちらからその顔を見ることはできない。それでも伊之助は、墓守の持つ刀が己のモノであることだけはわかった。それには、真新しい血液が付着している。

「お主、何者だ…?」

「私はここの墓守だ……。悪いが、お前たちにはここから出て行って貰う。言うことを聞くと言うならこの刀、鞘に収めよう。しかし、なおこの場を荒らすというなら……」

 フッと息を吐いた男。彼の瞳孔が怪しく揺らぐ。

「お前はその命を絶たれ、ここに埋められる」

 墓守の口が止まった瞬間、一陣の風が彼らの髪を撫でた。墓守の紡ぎ出す言葉ひとつひとつに含まれた威厳と殺気に、伊之助は足が竦む思いがした。

「ひっ、ひぃぃぃぃぃぃっ!」

 生き残った官軍兵士は、命からがらといった体で逃げて行った。

その逃げ足の速さに伊之助は思わず感心してしまいそうになったが、今はそれどころじゃない。

「あんた、その太刀筋は……」

 恐る恐る問いかける伊之助を墓守はギロリと見つめ返した。目つきはそれほど鋭くはないが、瞳からは禍々しいものが染み出ている。まるで、その奥から何かが這い上がってくるかのように。だが、それは一瞬で消えてしまった。

「あ、いや……昔道場に通っていたから、な……」

「そうなのか?」

 ——あんなに型破りな姿勢を取る流派があっただろうか……?

 伊之助は内心首を捻る。型破りというよりも、作法も斬り方も素人のようだった。基礎を学んでいない者の剣だ。目を泳がせているを見るに、恐らく嘘だろう。

「兎も角、お前の手当てをしないといけない。ついてこい。話はそれからだ」

「その前に、刀を仕舞ったらどうだ?」

 俺のモンだし、という文句は咽喉の奥で止めた。

「刀……? ああ、すまない。まだ残党がいたら困るから」

 その返って来た声に、伊之助は思わず笑いそうになった。周りにはもう気配がないわけだが、それがわからぬとあればやはり素人だ。そう安堵する伊之助に、墓守は少々困惑しつつ刀を返してくれる。

「それもそうだな……」

 不思議そうに見つめてくる墓守。だが彼とは一切目を合わせないまま、伊之助はゆっくり息を吐いた。

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