27.竜の絵
イルマはスペキリの見学時に、教師が言った言葉を思い出していた。
記録の間は、明かり取りなどを設置できず、そのため照明を持ち込むことになるのだが、魔法の演習を行う場所として他の余計な魔法を使うことが基本的には禁じられている。そうなると部屋全体を明るくするのが難しい。あまりに大量の松明を持ち込めば、空気の循環もままならない部屋はすぐに息苦しくなってしまう。
そこで取り入れられたのがこれだ。特別な技術で作られたカンテラは、絶妙な位置に置かれた水晶や鏡によって光を反射し、部屋全体を昼間のように明るくすることができるのだ。
現れた空間に、二人は息をするのも忘れてしまう。呆然と上へ下へと目を走らせる。
ここが砂の下であることが信じられない。それほどに広い。
壁が光り出す。だが、明かりがちらついて眩しいなどといったことはない。すべては計算されている。
「アーヴィン……」
「すごい、すごいよここは、これが本当の記録の間なのか――ほら、天井と、床に方程式が記されている。やっぱりここは未完だ」
儀式が完了すれば消されるはずの方程式がそのまま記されている。イルマはアーヴィンに手を引かれてさらに進む。
小さな音もこの巨大な空間にこだまする。声がぶつかるものがなく、どこまでも遠くへ響いていく。
「ここが中央かな」
彼は足元と天井を交互に見て言った。
丸い円が描かれている。
「違う、球ね」
「ああ。その隣のはコクレアの方程式だ」
魔法の難しさは、それを紙面で伝えられないことだ。魔法は三次元であり、それを正確に二次元で表現するには限度があった。立方体は描けても、それがいくつも重なり合うことを表現するのは難しい。一応表現するための記号や書式はあるのだが、それも正確ではない。
コクレアの方程式は螺旋を作り出す基本の方程式だ。下の渦が上の渦より小さいので、下から上へ方程式を展開していた。球はグロブスの方程式によって作られる。描かれている円の中心にαの文字があった。これが基準となるという知らせだ。
渦の中心には2とあるので球より二倍の大きさで方程式を解くようになっていた。他にも立方体や円柱、円錐に半球と基礎の方程式がたくさんちりばめられている。そのすべてに数字が添えられているが、2なんて整数はめったにない。小数点が、細かいものでは三桁まである。一回見ればだいたい覚えられるが、頭の中で想像して、とんでもなく大きな布陣になるなと驚いた。
「すごいわね。いったい何の魔方陣になるのかしら?」
そうイルマが話しかける。しかし、返事がない。
背後に立っているはずの彼に聞こえないわけがない。振り返りざまに顔を覗き込むと、目は開いていた。
「アーヴィン? どうしたの?」
彼は、頭の上と床を見ているのではなかった。入ってきた方から見て左手にある壁を、眉をひそめて見入っている。
イルマもその視線を追う。
「ああ。竜ね」
壁一面を使って描かれているのは黒い竜の姿だ。その竜は、かなり広めの応接室二つ分はあった。ただしそれは絵の部分だけ。その周りにびっしりと文字が書かれている。魔法で彫られたものなのだろう。もし手彫りだとしたら、どれだけの日数がかかるか想像できない。
竜の絵の下には、その細かい文字よりもずっと大きな字で何かが書かれていた。絵の説明かもしれない。ところどころ崩れ落ちてしまっているので、全部を読むことはできないが、ウェトゥム・テッラ〈古王国〉で使われていた一般的な文字だ。
「目? 目の儀式って書いてあるのかしら? なんだか変ね」
大きな竜の絵と、小さな三人の人。たぶん魔法使いだろう。その一人が雷に打たれている。
「まさか、そんな……」
あらためて彼を見ると、紺色の瞳が大きく見開かれ、口が開いている。わかりやすい驚愕の表情だ。
「何? どうしたの?」
「だってイルマ、この絵」
「竜の絵でしょ? 火は噴いていないみたいだけど、翼は案外小さいのね。ああ、でも考えてみたら彼らは魔力の塊なわけだから、きっと魔力で浮くのよね」
疑問に自分で解答を述べ、うんうんと満足げにうなずく。そんなイルマをアーヴィンはまじまじと見ている。
「君は……、なんでそんな簡単に受け入れられるんだ!」
「えっと、何が?」
信じられないと彼はつぶやき、真っ直ぐ絵に指を向ける。
「竜だよ! もし、もしこれが本当にウェトゥム・テッラのもので、本当にここが記録の間だとしたら、竜がいたってことになるんだぞ!?」
最後は声が裏返っている。
しかし、そんなに慌てる理由がイルマにはよくわからなかった。
「だって、竜はいたもの。でしょう?」
驚く理由がわからない。昔から話によく出てくるではないか。
「確かにいたという物的証拠はなかったけど、ウェトゥム・テッラの人と竜の話は昔よく兄さんがしてくれたし。結構お気に入りよ?」
「それはどんな……」
「どんなって、たくさんあるけど。……だって、私たちが魔力を見る目だって、もともとは竜と人がそれぞれ道を別った原因になっているわけだし」
「待ってくれ、何か話が」
「私たちのこの眉間にある力の目は、本来は人が捨てた目なわけでしょ? 壁画はちゃんと竜が三つ目だわ。額のものが力の目ね。で、竜は両の目を閉じているでしょう? それは彼らは理性の両目を捨てて、力の目を取った。だから大きな魔力を持ったわけだけど、理性が薄れてやがては滅んでしまった。人は力の目を捨て、理性の両目を手に入れ地上に栄えた。ってやつ」
「そんな話聞いたことない」
アーヴィンは気の抜けたような声でつぶやいた。
「そうなの? 王都で流行っていたのかしら。アーヴィンはゲナの生まれだったわよね。だから小さい頃にあまり聞く機会がなかったのかも。竜の話って不思議と大人はしないし。私も兄さんから聞いたくらいだもの」
アーヴィンは口元を押さえて考え込んでしまった。こうなると話しかけても無駄だ。方程式を熱心にいじっているときと同じ状態だった。イルマは肩をすくめて他の壁を見るため歩き出した。
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