見えない
な。
第1話 (1)
1
彼女が小学校に行かなくなって2週間が過ぎた。正確には自室から出なくなって、が正しい。世の中には不条理と評するに疑いのない出来事がたくさん起こる。彼女自身、今我が身が置かれているその状況を最初まさに不条理であると考えた。だが今彼女が考えているのは、それが真にそうであるかという点であった。つまるところ彼女は、答え合わせのない問題集を手に、溢れた水を盆に戻そうとしているのだ。さて、もう少し彼女について話すとしよう。
彼女、飯島尚子はY県のT市で生まれ育ち、現在は市内の小学校に通っている小学6年生だ。T市は瀬戸内海に面した工業が盛んな街で県内では比較的人口の多い街ではあったが、市内の中学校は公立校しか存在せず、尚子もまた中学の受験勉強などというものは無縁で、当たり前のように義務教育を謳歌して居るとも言えた。そもそも尚子は勉学においては他より不得手であったためどこにおいてもそのようであったかもしれないが、その点運動能力においては秀でており、お昼休みにドッジボールなどを興じれば男子にもけして遅れを取るようなことはなかった。彼女がボールを投げるとき、肩ほどに切り揃えられたストレート黒髪が揺れる様に、あるいは滴る汗に、魅了された男子も少なからずいたであろう。
そんな彼女が病欠と言うのだから、クラスメイトの中では殺人ウイルスでも出回ったのではないかしらと話題になったものだ。と同時に、彼女のことだから2,3日もすれば戻って来るであろうとこのときは誰もが思っていた。ところが1週間だっても彼女が教室に姿を現すことがなかったのでいよいよ殺人ウイルスを疑う余地がなくなったのである。だが現実はさらに怪奇なものであった。そして彼女の最大の不幸は、その事を誰も理解してくれないという点にあった。
さて、話を彼女の部屋に戻そう。彼女は今何をするわけでもなくベットの腰をかけ自室のドアノブを見つめていた。普通のドアノブ。だがそれを見つめる彼女の目には恐怖の色がしっかりと写っている。外からは学校帰りの子供の声が聞こえる。カーテンはしまっているが外には夕日が輝いているだろう。日はすっかり長くなってしまった。もうすぐ梅雨になるだろう。新しいクラスと馴染めてないうちにこんなことになってしまって、他の友達は心配してるかしらんと彼女は考えた。自分だけGWが長くなったと最初は少し喜んでいたが今は悲しさしか残っていない。尚子の家族は、こともあろうに彼女に怒った。無論最初こそ寄り添っていてくれていたが今ではなんと聞き分けのない子だろうと彼女を罵った。このままではまた今夜も嫌味を言われると思うと目の奥が熱くなるのを感じた。それでも彼女が今日まで自分を失わなかったのは、一人の友達のおかげであるとはっきり言えた。毎日その日の学校での些細な出来事を伝えに来てくれる尚子のかけがえのない友達。もうすぐその友達が見える時間だ。
尚子はゆっくりと立ち上がるとドアノブに近づいた。息を呑む尚子。手をそっと延ばす。すると不思議なことが起こった。ドアノブにすぅと切れ目が入ったのだ。そしてそれがゆっくり開いて、ああ見給え、それはこの世のものとは思えない光景だった。今ドアノブに人間の目が浮き上がったのだ。尚子は思わず目を逸らしたがやがて再び視線を戻した。するとすでにドアノブには無数の目がついていた。まさに、まさにこれである。この奇怪な無数の目こそが、尚子がこの部屋から出れない原因そのものであった。これがなんであるかは無論尚子自身知るわけがない。また、他人からはこれは見えない様子である。よって彼女がこれを他者に説明しようとしたとて、くだらない妄想だと切り捨てられてしまうのが現実であった。もう一生この部屋から出てないのかもしれないと思うと尚子は涙を流した。ドアノブには気が付くと口まで出来ていた。そしてドアノブは泣き崩れる尚子に一言「駄目だよ」とだけ言った。
2
7月に入り小学校のクラスはすっかり夏休みムードになっていたが一人心から楽しめないでいる女生徒がいた。彼女の名前は浅田奈美。奈美は今一つの問題を抱えていた。それはクラスメイトの飯島尚子の不登校であった。元々尚子と奈美は大の仲良しというわけではなかった。今までの小学校生活の中でも何度か同じクラスになることはあったが積極的にお話したことはそれまであまりなかった。というのも、奈美自身が少し引っ込み事案な性格だったからだ。だからといって全く馬が合わないというわけではなく、尚子の方から幾度となく話しかけてくれる機会はあった。でもその度に奈美はついしどろもどろな返事をしてしまっていた。だからといって奈美が尚子に対して劣等感を感じていたかといえばそれは違った。寧ろ奈美が抱いていた感情はそれと真逆であると言えた。だからこそ6年生になって二人が同じクラスになったとき、尚子みたいになりたくて長かった髪を短くまでした。(実際は肩より少し下だったのでそんなに短くなったわけではなかったが彼女にとっては、と言う意味だ。)
少し時間が戻って5月の連休が開け数日経った日、尚子が風邪で病欠をした。奈美にとってそれは、もちろん少しばかりは心配ではあったが、特筆すべき出来事でもないとか当初は思っていた。だがその思いを砕いたのは担任の先生の次のような言葉だった。浅田さん、風邪で休んでる飯島さんに連絡網を届けてあげてほしい。奈美はこの言葉を最初理解出来なかった。先程記した通り二人に間柄は不仲ではないにしろどこかまだ距離感があったからだ。とはいえ奈美は尚子に少なからず憧れとも言える感情もっていたし、また頼まれごとを断れるような性格でもなかったためにこの依頼を一先ずは、快諾とは到底言えない形でのんだのであった。
3
尚子が病欠してすでに一月ほど経っただろうか。あんなにまでうっとおしかった梅雨があけて気象予報士が幾度目かの台風の進路を毎朝伝えているそんな時期。クラスメイトの中ではもう尚子の話題もあまりされなくなってしまった。だがそれは尚子が皆に忘れられたからなどではなくそれと別の話題で持ちきりだったためだ。なんと新しいクラスメイトが転入してくるとのことだった。そんなクラスの状況をみて、友人とはと改めて奈美は考え直す。思えば人間とはなんと移り気な生き物だろう。結局は人間とは今この瞬間を生きている生き物なのだ。そしてその時間軸を外れたものは容赦なく興味から除外される。それはけして残酷などというものではなくごく当たり前の生理現象であるとそのように彼女は感じた。無関心ほど怖いものはないと。私が先週の夕飯のおかずを思い出せないのと同様にして、皆も今この瞬間彼女のことが頭の片隅にもないのだと。だが、彼女にとって尚子のことはけして過去のことではなく今のことであった。今、先日尚子が話してくれた言葉が、奈美の頭の中をぐるぐると周り粘土のように形を変えていた。そこには少なからず道徳なる言葉が存在しただろうが少なくともどちらかといえば彼女のエゴイズムによるであろう思考があり、またそれを彼女自身自覚しておらず寧ろそれこそが道徳であるというふうに考えていたと言うことだけ読者諸君にはこの場で伝えておこう。
さて、その日はいよいよ転入生が来る日。朝のHR前のクラスはすでに大盛り上がりであった。転入してくる子は女の子らしいとか、東京から来たらしいとか、噂話にも等しい話題がラリーを繰り返していた。さほどこのことに関心のなかった奈美もいよいと当日となれば、変な時期に来るもんねなどと考えた。いよいよ朝のHRが始まるとクラス盛り上がりも最高潮となった。担任の先生もしょうがないといった顔つきで苦笑いしならが進行を続けている。
「みんな知っての通りかもしれないけど今日うちのクラスに新しい友達が増えるよ」
そんな担任の先生の言葉を聞いても奈美がどこか上の空だったのは数日前に尚子から聞かされた話のせいかもしれない。
降り続く梅雨の雨はアスファルトから独特の匂いを出す。傘に弾ける雨音は激しかったが、歩く奈美の足取りに対してはなんの支障にもならなかった。水たまりをパシャリと踏み付ける長靴は地面と触れている時間を嫌った。彼女が目的の尚子の家に到着したのは学校の校門をググって半刻と経過していない時刻だった。いつもお迎えしてくれる尚子の母親は最近少し痩せた。多分。少なくとも最初会った時のような笑顔は消え、今は疲れが見た目に出ている。それでも枯れそうな笑顔とも取れない笑顔で奈美を尚子の部屋へ通してくれた。
「奈美ちゃん」
部屋に入ると尚子は笑顔で招いてくれる。母親とはうってかわってそういう尚子の笑顔はだんだんと明るくなってきたように感じる。もちろん学校に行けない以上屈託のない笑みかと言われればそうではないのだが最初の頃に見せていた笑顔ではなく打ち解けた笑顔をするようになった、と奈美は感じていた。二人はとても仲良しになっていた。
「具合はどう?」と奈美。
「全然大丈夫。雨酷いみたいだね。」
尚子は心配そうな目で奈緒を見る。平気だよ、と奈美は濡れてない体をくるっと1回転回して見せるとそこに座った。
「長靴はいてたから」
そう言いながら奈美は尚子の部屋をぐるっと見渡した。きれいな部屋。毎日持っていってるプリント類もきれいに束ねてある。毎日読んでいるのかな。布団も畳まれていて寝たきりってわけではないことは見て取れる。風邪は彼女の言うとおり本当に治っているんだろうと奈美は思った。と同時に気になる点が一つあった。いつ行ってもカーテンが閉まっているのだ。フムンと奈美。これでは空模様なぞわかるまいと。
「ごめんね。毎日。」と尚子。社交辞令。
「いいよ、おかげで私尚ちゃんと仲良くなれたから」
これは心の底からの事実だと奈美は思った。現に奈美は今の境遇を感謝さえしていた。尚子との毎日のこの時間は奈美にとってかけがえのないものとなっていたのは間違いなかった。永遠に今が続けばいいのにとさえ思ったことがある。だが、実際奈美は不思議だった。奈美の学校での話を聞く尚子は本当に楽しそうで、おおよそ学校に行きたくないといった感じではないのだ。かといって前述の通り具合が悪いといった感じでもない。そんな疑問が顔に書かれていたのかふと尚子が黙ってしまった。奈美はしまったと思ったが気がついたときには二人して沈黙が続く事態。実際は一瞬だったが奈美はそれを5分ほどに感じた。止まった時計のネジを巻いたのは尚子だった。
「ねえ、幽霊って信じる?」
予想もしなかった問いかけに声が一瞬でない奈美。
「ゆ。幽霊…?」
「そう、死んだ人が化けて出るーとか!」
そういって尚子はけらっと笑っておばけのポーズをしてみせた。
「信じてないけど…居たら怖いかな…」
「そうなんだ…」
尚子の声のトーンが少し下がったのを感じて奈美は聞く。
「もしかして…家から出れないのと関係ある…?」
カーテン越しに聞こえる雨音は依然なり続いている。尚子の沈黙が肯定を意味した。
あの時の言葉を奈美は未だに処理できずにいた。理解できないというより鍵穴が合わないといった感覚だ。それでも、尚子の言葉は真実であると奈美信じて疑わなかった。今このHRで転入生を待っているクラスメイトの一人でも、私の、そして尚子の話を真剣に捉えてくれる人はいるだろうか。また真剣に向き合ってくれたとして、今のこの状況を好転させれるものがいるだろうか。そんな思いにさいなまればがら奈美は一種の絶望にも似た感覚で開く扉を見るともなく見ていた。
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