刧花契骨
煎餅夢譚
梅の香り
この世は無情だ。
生まれる場所は選べない。いくら望んだとて、裕福な家庭に生まれるとは限らないし、力を持っているとも限らない。
常に世界は不公平で、理不尽だ。
それは己も変わらず。
この世に生を受け約3年。
両親は人に騙され負債まみれ、2人して責任を押し付け合いついに男は逃亡。
女は負債と子をどちらも守るため何でもした。しかしその末路は悲惨で、女として色々な人に弄ばれ壊され、いつしか息絶えた。
子は両親を無くしてもなお、幼いながら懸命に生きた。
5歳にして時に人に縋り、時に盗みを働いた。
少年は生きるためであれば何でもやった。
望んで生まれてきたわけではないのに、何故己がこのような思いを、仕打ちを受けないといけないのか。
目の前を通る幼子は両親に抱かれ穏やかな表情で眠っている。
己の姿を見れば黒く汚れ、所々に穴が空いているボロ布を纏っただけの姿に隠れる骨と皮だけの体。その体も何日も洗っていないせいで垢が溜まり蝿がたかってくる。髪の毛を切るお金もなくそれを洗う洗剤もない。ぐちゃぐちゃに絡まり、まるで鳥の巣かのような有様だ。
何故こんなにも違うのか。
少年は通りすがる全ての人を憎んだ。
物を盗み、人を傷つけ、その日の糧とする。
これが人間の生活と言っていいのか。
羨ましい、妬ましい、こんな人生、早く終わってしまえばいい。
「お金を、めぐんでください。なんでもしますから。」
人の多く通る道の端で、拾った割れて壊れた茶碗を目の前に置き、今にも消えそうなか細い声で金を強請った。
必死に生きようと、何度も声をかけた。
だが返ってきたのは、ゴミを見るような視線と、『気味が悪い』『関われば呪われる』という冷たい声ばかりだった。
いつかあった子供に聞いたことがある。
この街には神殿があって、その神様が僕たちを守ってくれているのだと。
その神様は優しくて誰の願いも聞き届けてくれると。
「何が神だ。神がいるなら何故僕はここにいる。何もしてくれないくせに偉ぶりやがって。神様なんかいない。俺を見捨てた神殿なんか、焼け落ちればいい。」
空へ向かって呪いを吐く声は、誰にも届かず、冷たい風にかき消えた。
己に降りかかる全ての不幸を、名前も、何を司っているかも知らぬ神に押し付ける。
こんなところで死んでたまるかと、全ての人から奪ってやる。恨みを糧に少年は立ち上がった。
必ず生き残って、助けてくれなかった人たちを見返してやる、見返して目の前で跪かせてやるんだ。
そう意気込んだ少年は今日を生きるべく食料を探しに歩き始めた。
道端に食料はないか、隙のある金を持っていそうな人間はいないか、下を向きながらチラチラと前にいる人々を観察する。
しかしこの町の住人はこの辺りは孤児も多くスリが横行しているためか表立って銭袋を持ち歩く者は居ない。
むしろどこかに隠して歩いているだろう。
ここ数日ろくに食事をしていない少年は、焦りから小さな舌打ちをした。
すると、前方から数名の道士がぞろぞろと歩いてくる。
高貴な存在なのか、周りの人々はざわつき、崇めるものもいれば、その美しさに顔を赤らめるものもいた。
身にまとっている布は白く清潔で、上等なものだ、道士だからといって金を持ち歩かないわけはないだろう。
観察していくとその男の腰には小さいが少し膨らんだ銭袋が下げられている。
腰に下げるという警戒心の薄い行動にここら辺のものではなく、離れたところに住みここへは何かで少し寄ったというところだろうか。
他の者がそういったものを持っていないのを考えると支払いは全て先頭の男がするのだろうか。
全員で6,7人程いるので質素な買い物でもまぁまぁな金にはなる。
少年は今日の標的に喉を鳴らした。
急いでいる体を装い、小走りで1番先頭にいたやつにぶつかり素早く銭袋を盗って懐にしまう。
その袋は重みがあり、喜びで危うく口角があがるところだった。
「すいません、急いでて。」
軽く頭を下げてその場を後にする。
後ろから声も掛からず焦った様子がないことから、どうやら財布をスられたことには気づいていないようだ。
あまり目を合わせると罪悪感が湧いてしまう為、顔は確認せず盗みを働いたが、1人だけ色の着いた物を羽織っており、他の人は明らかに下っ端感を出していたのできっと羽織の人が偉い人なんだろう。
意外と簡単に盗むことに成功したので、道士と言っても案外ちょろいんだな、あんなんで大丈夫なのかと思いながら場所を離れる。
何度も後ろを確認するが特に追ってくる様子もなく、裏路地に入り、壁に背を向けて懐から袋を取り出す。
盗んだ袋は、思ったよりもずっしりと重たかった。
肌に触れた感触は、ザラリと粗い。
ごく普通の、どこにでもある麻布の巾着袋。
色は地味な青緑で、贅沢な刺繍も、飾り紐もない。
これだけ質素なら、大した金は入っていないかもしれない。そう思いながらも、腹が減りすぎていた少年は、震える手で袋の口をほどいた。
ふと目に留まったのは、袋の隅、縫い合わせた布の影。
目を凝らして見なければ気づかないほど、細く、淡い糸で、花の着いた梅の枝がひと枝だけ縫い取られていた。
なんだ、これ。
刺繍にしては目立たないし、誰に見せるわけでもない。
少年には分からなかった。
けれど、なぜだかそれが、とても大事なものに思えて、しばらく袋を開ける手を止めてしまった。
「関係ない。生きるためだ。」
小さく息を吐いて、少年は指先で袋の中に手を入れた。
中からは、きちんとまとめられた銭の重みと、ほんのかすかに、乾いた薬草の匂いがした。
銭を数え終わると再び懐に忍び込ませる。
問題がなければ1ヶ月は生きていける量だ。あの人たちはきっと何かあった時にどこかへ泊まることができるよう多めに用意していたのであろう。
少年は己に金が渡ったことで生き延びることができたのだ、彼らは善行を行った、両者とも幸せじゃないか。
少年は罪悪感を押し込め、久々のちゃんとしたご飯を食べるため屋台の並ぶ道へと向かった。
路地裏を抜けると道の両端に屋台が並び、各々好きな物を買ったり、悩んだりしている。
醤油が塗られた香ばしいイカ焼きやお腹がなるほど美味しそうな月餅の他、野菜や果物、食べ物だけではなく、投壺、射的、くじ引きなどという遊びごとの屋台も出ていた。
祭りでもやっているのだろか?
少年は心踊らせながら一つ一つ屋台を見ていくと、一層目を惹かれる屋台が目の前に現れた。
ふわりと甘い匂いが、風に乗って漂い鼻をかすめる。
粗末な布をかけた台の上には色とりどりの飴細工が並んでいた。
花や鳥、名前の知らない生き物を型取った小さな棒に巻きついたそれらは、どれも子供の手のひらに収まるほどの大きさだった。
大人であればその小ささの技術に感心するだろうが、少年にとってはとても贅沢で、腹は膨れないのにそれは欲しくてたまらないものであった。
他にも隣には、飴をたっぷりとまぶした干し梅や、甘く香る炒り豆が小さな篭に盛られている。
それら全て一文、二文で買えるらしく、布の袖を振って走り寄った子供たちは、次々と硬貨を差し出し食べているのをみて、喉の奥がきゅうと熱くなった。
ふと、懐にあった物を触る。
カシャリと小さく鳴った袋の中身は目の前にある全ての輝きを手に入れるには余るほどの量だ。
しかし次いつこんな機会が巡ってくるのかも分からない。
今日だけ、今日だけだと心の中で唱え続け、思い切って屋台のお兄さんに注文しようとするが、懐から出した銭袋を見て口を閉ざした。
果たして誰かも知らぬ人の金を盗んだ挙句贅沢をしてもいいのだろうか。
前までは毎日ギリギリ腹三分の一を満たせるかどうかだったため、盗んだ金でも罪悪感はなかった。
しょうがなかったからだ、その金を使わなければ死んでしまうと、そう思ったから使うことができたが、今回はどうだろうか。
腹は満たされないのに金だけは消えていく。
己の欲望と葛藤しながらやはりやめとこうと銭袋を懐にしまおうとした瞬間、首が苦しくなり体が宙に浮く。
何が起きたか分からない少年は掴まれている手を両手で握った。
どうやら胸ぐらを掴まれて上に持ち上げられたようだ。
少年は己を浮かせている人物を抵抗しながら見る。
パッと見は普通の男でお偉い様でもそこらで転がっている乞食でもない風貌だ。
ただ、目にはとてつもない殺意を宿し眉間は眉毛がくっつくのではないかと思うぐらいに寄せていた。
まさか、何かやってしまったことがバレたのだろうか。
相手は筋肉が着いている訳でもなく、どちらかと言うと細身な男だが、それでも子と大人では体格の差は歴然で、少年は殴られるか、最悪命を失いかねない事実にさらに抵抗を見せる。
「てめぇか、うちの兎を食ったのは。あれはうちの娘が大事に育てていた子なんだぞ、同じ仕打ちをしてやる。」
罵声をあげる男からの唾が顔にかかるのも無視して、何とかその手から逃れようとする。
捨てられた時からの事を思い出しても、兎を食べたことなど1度もなく、少年は「僕じゃない」と、苦しみを我慢し力なく言った。
そうは言っても少年の立場はただの乞食で、やっていないという証拠もなければ、庇ってやることもできない。
あの歳の、腹が空いている状態であれば、なんでも食べてしまうだろうと、見ていた周りの人達は思い、ひそひそと、少年が仕返しで殺されても仕方ないと話すばかりだった。
「本当にやってないんです。信じてください。」
少年が叫ぶと、男はじゃあこれはなんだと懐の物を掴み取った。
その手には先程道士から盗んだまだ中身に手をつけていない銭袋がある。
「質素だが良質な銭袋だ。お前のでは無いだろう。誰から盗んだ。こんなことをするやつを誰が信用するか。」
少年は男から正論をぶつけられ、危うくやってもいない罪を認めてしまうところだった。
ずっと宙に浮いている状態も辛くなってきており、このままでは話しずらいので、下ろしてもらいたいところではあるが、男は下ろした直後の逃亡を恐れてか一向に解放される気配はない。
それどころか、罪を認めてもいないのにも関わらず、今から手を下さんとばかりに己を地面に叩きつけようとしているではないか。
少年は何とか命だけでも守ろうと思考を凝らすが、そんな暇はなくとっさに両手で頭を抱え衝撃に備えた。
しかし数秒経っても体のどこにも痛みはなく、逆に首元は解放され誰かに抱きかかえられていた。
胸元に抱き寄せられているせいか、目の前は真っ暗で見えないが鼻の奥では、ほのかに木の匂いと、どこかで嗅いだことのあるほんのり甘みのある春の香りは、少年の頭をくらっとさせた。
「年端のいかない子供に何をしている。」
頭上から発せられたのは低すぎず高すぎず、聞いてすぐに頭から抜け落ちてしまうほどの透明感のある、とても落ち着く声だった。
己を優しく抱きかかえている人は一体どんな方なのだろうか。
高鳴る鼓動を制御出来ないまま少年は顔を上げた。
「きれい……」
視線をあげた先には、雪のように白い肌にきちんと手入れの行き届いた長い黒髪を持つ青年だった。
青年ではあれど、その目は緩やかにつり上がり、力を持つ者の眼光を放っており、纏っている羽織の深緑は、見るだけで心が落ち着き、凛とした佇まいは、まるで冬に咲く一輪の梅のよう。
先程抱きかかえられた時に嗅いだ匂いは梅であったこと、銭袋を盗んだのはこの人からで、銭袋の端にも梅が縫われていた事を思い出す。
梅が好きなのだろうか。
あまりの顔の良さに意識が明後日の方向を向き、思考を迷子にさせる。
「こいつが娘の大事にしていた兎を食いやがったんだ。貴方には関係のないことだろう。」
男は青年がどれだけ名声のある人物か分かっているのか、あまり強くはでず、そのガキをこちらにいただきたい。と青年に向かって頭を下げた。
それでも青年は少年のことを離すばかりか、少し隠すようにしっかり抱え直した。
「証拠でもあるのか?この子は違うと言っているぞ。乞食だからと言って、最初から決めつけるべきでは無い。証拠があるなら渡してやろう。」
青年は怒るわけでもなく、庇うわけでもない、中立の立場をとって冷静に話していた。
「証拠はありませんが、見てください、こいつはこの銭袋を盗んでいます、絶対にこいつのではありません。兎を殺す可能性もあるでしょう。」
男は先程少年から奪った銭袋を青年に見せて怒りの孕んだ声を上げる。
兎の件はやっていないとはいえ、銭袋を盗んだのは紛うことなき事実。
少年は罪を認め謝罪しようと降りようとするが、青年は少年を離そうとはせず、強く抱き締めていた。
「その銭袋は私がこの子にあげたのだ。私が気付かぬうちに物を盗まれるなんてありえないだろう。」
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