熱帯夜の宇宙人

千代田 白緋

熱帯夜の宇宙人

熱帯夜。格別、雨の日は空気の濃度が濃く、香りが強くなる。雨で溶かした正負の感情やコンクリートの香水が満ち、肺が熱く蒸されていく。僕はそれをぬるいリキュールで流しながら、街を飲む。ギラギラと光る看板、騒がしいキャッチの男、人生の半分ぐらいを消化試合だと思っていそうな女の声。


僕はその誰よりも無価値で平凡でつまらない人間だ。



さて、自宅を飛び出してから幾日が経ったのか。数える気もないので朧気である。ところが頭の片隅では誰かが日数の正の字をつけている。そんな矛盾。考えないようにすればするほど、靴底についた咀嚼後のガムのようにへばりつく、この症状は一体、頭のどこを切除すればよいものか。


この“都会”という長々と無造作に続く道を歩くことに意味などないのに、ゆかりもないのに、なぜ。皆目見当がついていない。それこそ虫が光に誘われるように気がついたら“ここ“にいた。自分がどこで、どのように、健全で、自由に息を吸っていたのかも定かではない。恐らく、子供の頃、鼻水を腕の袖で拭っていたころは正しく人間的に生き生きと歩めていたはずだ。いつの間にか、その袖口に鈍器ボタンが、肩には世間の目という名の監視ジャケットがついた。


それにしても、この道、未だに出口が見当たらない。万華鏡のように見る度にころころと変る景色。


『いっそ、ここが地獄であればいいのに』


曇天を見上げ、そう一瞬口走ったのは、別に、会社が倒産し、無職になった消失感、明日への希望のなさからではない。加えて断言するが、自宅に帰ったら女が他の男と寝ていたあげく、僕名義の家だったのにも関わらず、なぜか追い出されたという敗北感故でもない。断じて。そう、断じてだ。

自分で否定しておきながら、もうすでにそれが現実逃避の答えになっていることも重々分かっていた。どうやら、僕も支離滅裂な論理を展開するただの阿呆だったらしい。ただ僕は恐らく女の隣で、したり顔だったあの男を忘れない。「私を寂しくしたお前が悪い」「もとからあなたとは妥協で付き合ってあげていただけ」「この部屋も家具も彼に選んでもらった」などの初出しの真実はあったものの、女自身から追い出されるのはまだ飲み込める。が、しかしあいつだけは……。


そう怨恨に怨恨を重ね、あの男を呪い殺さんと親指を噛みしめて、目が覚めた。痛い。見ると、噛んだ指から血が滲んでいた。鮮血の赤は顔面に水をかけられたのと同じぐらい目が覚めるという事実を知った。

辺りを見回すと真っ暗だ。先ほどまであんなにギラギラと輝いていたネオンの光も、耳を刺すような都会の喧騒も何もかもが消えていた。騒がしいところから、静かなところに急に変わると、何とも言えぬ不安やおどろおどろしさを感じるのは人間のバグに他ならない。


ここはどこなのか。辺りを見回すと一つの街灯が見えた。暗闇に光るろうそく。とりあえずあそこに行こうと本能が言う。向かわねば。そんな必要性、義務感。正に飛んで火にいる夏の虫だと自虐しながら、雨の中、傘もささずに29歳が何をやっているのだろうと一縷の呆れのため息を吐きながら、僕は歩みを進めた。心なしか足が軽い。


街灯に徐々に近づいていく。ずんずんずんずん。雨が顔に張り付くように降り注ぎ、ふと落ち着いた。女だ。女がいる。それもただの女ではない。街灯がスポットライトなら天から降り注ぐ雨は彼女を引き立たせる宝石のつぶて。彼女は天に指先を伸ばし、何かを乞うような姿勢で座り込んでいる。劇場的でされど静止画のよう。そうかと思えば、突然立ち上がり、雨と社交ダンスを踊るかのように舞っている。


確実に正気の沙汰ではない。それを見ながら、飲みかけの缶チューハイの底の雨水か酒か分からない液体をあおっている僕も。そこまで思考がいった後、彼女と僕とでは美醜の差が歴然であり、同じ土俵に上げるには不釣り合いな事を自覚した。


僕は彼女に声をかける必要があった。「好奇心は猫をも殺す」というけれど、好奇心を満たさずして、その人生は生きているのかと思う僕は、彼女に声をかける必要性に駆られた。


「なにをしているんだい?」


こんな簡素で面白みもない発言を良しとしなかった僕は今しがたあおった空き缶を彼女の足下に転がした。それに気が付かず、踊る彼女。そう、彼女に声をかける必要性、近づく大義名分を作ろうとした。だが想定外だった。


僕の転がした空き缶は彼女の足下に近づき、踏むかに見えた瞬間。空き缶は僕の顔面を猛烈に弾いた。彼女が缶を蹴り返してきたのだ。


「痛って」


「あら、ごめんなさい。異星人による攻撃かと思って」


「いせ、なんだって?」


「異星人。私、狙われてるの。あなたもそうでしょ?」


なにを言っている。


「私はさ、熱さで脳みそがとろけているんだよ。でも、アイスだってチーズだってとろけてる方が美味しいし食べごろじゃない?。でも、世の中にはハードタイプが好きな人がいて、そこに落ちている缶みたいな堅い思考でもって我々とろとろ族を根絶やしにしようとする。だから私はどんな理由があってもそいつらを蹴り返してみせるの」


「強いね」


「当然でしょ。君だってとろけだしてみたらわかるよ」


「僕はまだハードタイプってこと?」


「もう!禅問答!なんでも聞いて答えが返ってくるわけじゃないの。欲しい情報が決まって、欲しい答えだけいるならAIにでも頼んで!」


濡れた髪の毛を無造作にかきあげながら女は言った。


「それもそうか」


現代人の悪いところが出たな。


「ほら、もう地獄から帰る時間みたいだよ」


「あっちでも君に会いたい」


「そう思うのは今の一瞬だけ。覚めたら、冷めたら、みんな私となんて会いたくなくなる。ま、今以上に頭とろとろになって、私と混ざりあえるようになったら、また」


女の振る手がやけに生々しいのに子供じみていて頭がバグる。


「そっか。君は」


そう言いかけた僕の唇に彼女は先刻、蹴り飛ばした缶を押し当てた。鉄の味がした。この鉄分が自分産なのかこの女のものか、そんなことはどうだっていい。大事なことは鮮血の赤は顔面に水をかけられたのと同じぐらい目が覚める。



僕は自宅で目覚めた。全身に熱い汗を浴びながら、一人。どうやら、この暑さなのに冷房もつけていなかったらしい。もう女もあの男もいない。僕の世界には存在しない。外にはいつ通りギラギラと光る看板、騒がしいキャッチの男、人生の半分ぐらいを消化試合だと思っていそうな女の声。

そうか、今日は熱帯夜だったのか。通りで夢の中で宇宙人と遭遇するわけだ。そして今夜、熱中症で二人の人間がいなくなった。

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熱帯夜の宇宙人 千代田 白緋 @shirohi

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