喉が渇いていたから。(となりの阿修羅ちゃんSS)

珠邑ミト

第1話


 じくじくと手が傷む。

 右手と左手の両方だ。小指とその下の外側、いわゆる手刀で切ったり拳をにぎってドアを叩くときにあたる部分、そこが擦り切れて血が滲んでいた。

 一体いつ傷めたのだったか。うまく思い出せない。

 じくじくと脈打ちながら、じびりじびりと皮膚から骨までがひりついている。ああなんて厭な日だ。ぐらりぐらりと両手を脇にぶら下げて、俯いて進む昼間の飲み屋街に人気はない。白い敷石の続く歩道の上を進むまことの足元にも自身の影すら落ちていない。太陽が真上にあるからか。それとも太陽までもが誠を嘲笑って虚仮にしているのか。

 厭な日だ。いや、厭な人生だ。どうしてだ。どうして自分ばかりがこんな扱いを受けねばならない。仕事先でもそう、家族からもそう、学校でだって習い事でだってずっとずっとそうだった。皆が誠を厭な目で見ていた。じっとりと、腐って蛆の湧いた猫の死骸を見るかのような目で。

 ぐるりぐるりと目が回る。喉が渇いているのかも知れない。二日酔いで。昨日は一体何本ストロングのチューハイを開けたのだったか。記憶にない、思い出せない、何回吐いたかも覚えていない。口の中が乾いている。不快だ。ああ不愉快ではらわたが煮えくり返りそうだ。

 五月の連休も終わったというのに、どうしてこんなに半端に寒いのか。気候ですら誠を苛立たせるというのはあまりに身勝手すぎる。

 そう思って誠が胡乱な目を上げると、そこにひとつの看板が出ていた。

 喫茶店の看板だ。BAR Neighborという店名が記されている。黒板に毎日ご丁寧にメニューを描き込むスタイルの。どうやらその雑居ビルの半地下に店があるらしい。喉が渇いていた。水が欲しかった。ポケットに財布があるかどうかも確認せず、ふらふらと誠は階段を下った。



 ドアを開けると、かららん、と軽い鐘の音が頭上から降ってきた。

 誠は一瞬びくりとした。その音に既知感があったのだ。

「いらっしゃいませー」とやる気のない声が彼を出迎える。少し顔を上向けるだけでも億劫だが、なんとかわずかに顔を面に上げた。

 薄暗い店内にようやく焦点が定まる。

 声を発したのは、カウンターの奥にいるヒゲを生やしたバーテンダーらしい。およそ精気らしきものを感じない。いかにもこういった水物の商売くらいにしかつけないような男らしい風貌をしていた。

 ふっと溜飲が下がる。つまらない人間を見ると、心が和らぐ。

 とぼとぼとカウンターへ向かった。カウンターの横にアンティークを模したチャチな置時計が置かれている。かち、かち、かち、かち。耳障りなその音も、どうしてこんなに気に障るのか。

 ともかく喉が渇いていた。

 カウンターの一席に腰を下ろすと、無表情なマスターが差し出した水を手に取った。グラスを手に取り一気に干すが、まるで渇きが取れた気がしない。

「――すまんが、もう一杯もらえるか」

 ガラガラの声で誠が声を掛けると、「ふふ」とどこかから高い笑い声がした。とても耳障りな美しい声が。目眩にまみれた焦点の定めにくい目で首を右側へ巡らせると、奥の一席に一人客がいた。

 ちりん、と小さな鈴の音が聞こえた。

 少女のような丸顔。ふわりと癖のついたピンク色の髪。アーモンドのような形をした色素のうすい瞳。ネイビーブルーのパーカーと、同じ色のハーフパンツで包んだ華奢な体型。

 じっと誠を見ているその顔はアイドルやセクシー女優でもちょっと見かけないほどの美少女ぶりだったが、その骨ばった手の形や露出した膝下から辛うじて男であることが読み取れる。そして、今しがた聞こえた鈴の音の正体が、その少年が首から下げた、極小さな銀の鈴のペンダントであることも同時に知った。

「ほんと笑っちゃうよね。何杯飲んでも一緒だよ」

「なんだ……?」

 むかりと腹の中で怒りが煮えるが、しかしどうしてだろう。同時になんともしようがない怖気が走るのは。

 少年は冷たい猫のような目で正面を向くと、頬杖をついて足を子供のようにぶらつかせた。その様子が長男のことを思い起こさせて、背中心を赤い炎のような怒りが這い上がる。

「おじさんさあ、あんたほんと、どうしようもなくみじめなゴールデンウィークにつかまってんよね」

 その飄々とした語り口を、誠ははじめて聞いた気がしない。

 ふふ。

 ああ、また。

 また少年が笑った。

 いや、これは、


 嗤ったのか。


 少年のかたわらには、段ボールに白画用紙をのりで貼り付けただけという、貧相な見栄えのB5サイズの看板が立てられていた。


『この世の地獄の相談、よろず承ります  よいのぐちアスラ』


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