第2話(1/3) 潮(うしお)の目覚め その1
人って、どんなときでも、お腹が減るんだよな。
痛みより先に、空腹。
潮が目を覚ましたとき、最初に感じたのはそれだった。胃が空っぽの洞穴のように虚ろに鳴った。
「お腹……すいた……」
ひび割れた声が、朦朧とする頭に響いた。あれ、これって、自分の声やんな?
目を開ける。視界が白い布で覆われていた。天井じゃない。そこはテントの中だった。
(……いつものテントじゃないみたいやけど?)
縫い目の隙間から冷たい空気が流れ込み、それに乗って、薬品と鉄錆と、どこか甘く腐った匂いが鼻を突く。潮はむせこんだ。
(……ここ、どこやろ)
なんだか背中の下が痛い。薄い布きれ越しに、板の固さがじかに背骨に伝わってくる。頭を動かそうとすると、粗雑な袋詰めの枕が軋む。
(……歩いてきたんか、自分で?……いや……)
かすかに記憶の隅に残っている。うちは誰かに肩を貸りて、丘を登る一本道を運ばれたんやった。洗いざらしの白い衣の匂い。唇の端の鉄の味。
上体を起こそうとした瞬間、鎖骨のあたりに鋭い火花が走った。
「うっ……」
息が止まる。歯を食いしばり、痛みの波が引くのを待つ。左肩も、二の腕も、胸のあたりも、殴られたあとのように重だるく疼く。
頭の少し上で、ぱちりと小さな音がした。
見上げると、煤けた金属のランプが枕元に置かれている。ガラス越しの火がゆらめくたび、天幕の内側に黄色い輪が浮かび上がり、すぐに薄暗がりに消える。そのリズムに合わせて、自分の影が壁の布の上で伸び縮みする。
(……誰か、おらへん?)
首を回そうとする。首筋の筋が悲鳴をあげる。我慢してゆっくり視線を移す。
天幕の入口の布が、さっと揺れた。
人影が立っている。くたびれた制服に腕まくりをした若い女。衛生兵だ。潮と目が合った瞬間、
「……あ」
それだけ言うと、彼女はくるりと背を向け、天幕の外へ小走りに出ていった。
(……なんで?)
取り残された。ランプの火がまた小さな音を立てる。
ふと、天幕の隅が目に入る。ほの暗い棚。ランプの光が届かない深い影の中に、いくつもの瓶の輪郭がぼんやり浮かんでいる。ラベルは剥がれ、埃を被っている。
その中で一つだけ、ぽつんと、薄闇の中に白い紙が浮かんでいる。新しいラベルだ。
(……あれ、なんやろ……薬びん?)
考えがまとまる前に、またお腹がすり減るような空腹感に襲われた。
やがて、足音が近づく。布が激しく揺れる音がしたかと思うと、さっきの衛生兵が戻ってきた。その横に、リーゼが立っている。瓦礫の中で潮を見つけてくれた、白い服を着たあの子だ。
「気がついた!」
白い衣が風を切って近づき、 潮の顔を覗き込む。青い瞳がほっとしたようにやわらいだ。
かたわらの衛生兵が言葉を続ける。
「あなた、三日も眠っていたのよ」
(三日?)
言葉の意味が頭に入ってこない。耳に残る音だけが、空虚に反響する。
「……へえ、そうなん?」
声が出た。自分でも間が抜けていると思った。
リーゼと衛生兵は顔を見合わせると、一瞬の沈黙の後、同時にふっと笑った。
笑われている。なのに、なぜか腹は立たない。むしろ、胸のあたりに張りついていた見えない膜が、ぷつりと破れたような気がした。知らない間に息を止めていたのか、深く息を吸い込む。
「ここは……?」
喉の奥が乾いてひりついて、声を出すのに少し力がいった。
「傷病者用テントよ」
衛生兵が短く答える。
(あ……)
その言葉を聞いたとたん、潮の頭の中に映像がほとばしった。
──鼓膜を震わす銃声。
──肺を焼く硝煙。
──足裏を穿つ瓦礫。
崩れた壁の向こうで、誰かが振り向く。長い髪が弧を描く。あの子が、こっちに笑いかけた──
「フィオナ!」
潮の体がむくりと起き上がろうとする。さっきと同じ場所に鋭い痛みが走り、視界が真っ白に飛んだ。
「危ない!」
リーゼの手が、潮の肩をしっかり押さえた。細い腕に似合わない力だ。
「そうや!……うちは……フィオナを……」
「探しに行ったんですってね」
落ち着いた声だった。
「心配ないわ。今も捜索は続いているらしいから」
「ほんまに?」
潮が縋るよな声に、リーゼはまっすぐ潮の目を見つめ返し、大きくうなずいた。
「だいじょうぶ。おともだちは、必ず見つかるわ。あなたはまず、自分の傷を治さないとね」
その言葉を聞いて、潮の体から力が抜けた。
(信じる……信じるしかない、今は……)
背中を冷たい板に預け直す。全身の重みが一度にやってきて、疲労が骨の髄までしみる。
「お腹空いてるでしょう? 何か食べられるもの探してくるから」
衛生兵がそう言い、再び出ていく。
リーゼがベッドの縁に腰を下ろす。
「だいじょうぶ? どこか痛む?」
「肩が……それと、胸のあたりが、重い」
「なにがあったか、覚えてる?」
「うち……撃たれてん、それで……」
思い出そうとしたわけじゃなかった。目の裏に焼きついてしまっていた。
まぶたが急に重くなる。
──あの銃声、あの熱さ、あの痛み……。
これ以上、思い出してはいけないと本能が判断したのかもしれなかった。視界がぼやけ、リーゼの白い衣の輪郭が滲んで遠のいていく。
そんな眠りに落ちていく潮の耳に、戻って来た衛生兵の声が届いた。まるで、遠いところで誰かと話しているような声──
「……撃たれて服がボロボロなのに、かすり傷なんておかしいですよ。やっぱり、あの石のおかげで助かったんでしょうか」
潮の眉が、わずかに動く。
(石……?)
手が届きそうで届かないその疑問が、潮の意識の中で、端からほどけるように曖昧さへと溶けていった。
背中の板の固さを、ぼんやりと最後に感じながら、深い闇がすべてを覆った。
#第四版
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