桜麦

ぽんぽん丸

母は桜を麦みたいに束にする

母の顔の8割は痣によって覆われていて、いつも粉を吹いている。だから母は必要な時以外は外に出なかった。


必要な時というのは私達の暮らしに必要な買い物や、私の参観日。同級生が母の顔を見て怖がっていることに気恥ずかしさを覚えたりした方がよかったのかもしれない。私はただ母が私のために家から出てきたよろこびに満ちていたし、他人がどうではなくて母に応えるために一生懸命に授業に参加することに必死だった。


それから母は桜の季節の夜、私が寝静まったころに山桜を採りに行った。あの懐かしいマウスとあだ名していた古くて丸い軽自動車のエンジン音を夢の中で聞いても、幼い頃からの慣習だったから私は1人ですやすや寝てしまう。


中学生にあがったころだった。私はエンジン音に目が覚めて眠れずにいた。そういえば母はどのくらいの時間桜を採りに行ってしまっていたのだろうか。私はさっぱり知らない。結局母は10時頃に家を出て、12時くらいに帰ってきた。


私は車から桜の枝を抱えて降りてくる母の姿を窓越しに見て笑ってしまった。桜の枝を肩に担いでえっほえっほと言っていそう。ちょうど美術の教科書で見たヨーロッパの農民が麦の束を抱えているみたいだった。


「麦の収穫みたいだね」

建付けの悪い玄関、嫌な音を立てて閉める母の背中にそういった。


母は私が起きていることに驚くこともなく

「そうだね、かあさんにとって麦かもしれんね」といった。


母は玄関の土間のバケツに水を張り、枝を浸してその日は眠る。我が家には1つだけの花瓶、でも小さな花は生けられないくらい大きな花瓶があって、翌日になると母はそこに枝の余分なところを落として生けた。母は小さい頃に生け花を習ったことがあるそうだ。私の目にその所作や出来上がった華やかさはまぶしいほどだったから、母は名の知れた人だったのではないかと今でも疑っている。


そうして出来た桜の生け花は貧しい我が家のリビングにだいたい一週間の間だけ花を咲かせた。母もその間、いつもより咲いていた。


私はだんだんと母をどうしても手伝いたくなった。あれは16歳。高校生活の2年目のはじまり。私は母にわがままを言って桜採りに同行した。母は市街の明かりを抜けて、だんだんと細くなる暗い山道を迷うことなく進んでいく。そうすると暗がりの先にフロントライトが照らす桜の林が見えてきた。


「はよやるよ」

母はエンジンを止めると枝を切る厚みのあるハサミを手に取って静かに素早く行動する。私は開けっ放しの後部座席に切った枝を積み込む役を果たした。この時に私はこれが犯行だということを自覚した。


何事もなく犯行を終えると、私達は車に乗り込んでただのドライブをする。盗んだ桜の枝を積んだ道路は行きしなより暗かった。だけど私の心の中は不思議な明るさがあった。私達はラジオなんか聞いてご機嫌だった。あまり音楽は詳しくないのだけど、あれは確かフジファブリックが鳴っていた。きっと春だからだ。シュガーという曲だった。


3日ほど経って高校から帰ってくると、警察がいた。その時のことはほとんど記憶に残っていない。だけど私の心にはっきりと残っている母の言葉。


「この子は関係ないんです」

しかし引き下がらない警察にたいして母は言い直した。

「この子だけは関係がないことにしてもらえないでしょうか」

結局、警察は桜の枝を回収することにも、母や私を連行することにも社会的な意義を見いだせず、マウスのナンバープレートの録画に成功した地権者の連絡先を伝えてかえっていった。


母はその夜、寝る前にこう言った。

「よかった。あんたが無事でよかった」

泣いていた。


私も泣いたのだけど、リビングの桜の花だけが笑っているように感じたことを覚えている。


私が地元を離れて働き出すと驚くことが多かった。


新入社員の給料でどこも割れていないフローリング敷きのマンションに住めるんだ。テレビで見ていたのは、そういうフィクションの中のもので、実際は我が家みたいなところにしか住めないと思っていた。だけど初任給の数字と家賃の数字を照らし合わせてみるとどうやら住めるらしい。


牛肉を週に一度くらいは食べても大丈夫らしかった。だって牛肉だ。角の生えた生き物の肉。好物のあんぱんだって毎日3個ずつ食べてもなんとかなる計算だ。


つまり、この世界は、私の価値はとんでもなく高いみたい。この世界は死ぬにはあまりにもシュガーだった。私はいつまでも歌っていられる。だから私はその余裕のぶん親孝行をすることにした。


翌年の春。もちろんおGWも盆も年末年始も地元の友達と遊ぶことを言い訳にして帰って来てはいたのだけど、やっぱり桜の枝を抱えて実家に戻るのは特別だった。


「最近は売ってるんよ」

「へえ、綺麗ね」


あの年からずっと空だった花瓶を母は布巾できれいにして、私の買って来た枝を刺してくれた。


「でもやっぱり寂しいね」

「そんなことあるかいな。あんたの買ってきた桜なんやから」

「今晩、採りにいこう」

「何を言うとるんよ!あんたはもう立場ある人やんか!」

「でも採りにいきたいんよ」


あの16歳の夜よりも私は必死にわがままを言った。


母は枝を分厚いハサミで切って、私はローンで手に入れたマウス似の新しい中古車の後部座席に放り込む。桜の枝窃盗団は無事に再結成された。


障害のある母がお目こぼしを頂いたのだから、私は仕事を失うかもしれない。もし警察に捕まってしまったら、もう桜の枝も買えないし、フローリングが剥がれた賃貸に引っ越すことになるかもしれないし、もうあんぱんは禁止で特売の鶏肉しか食べられないかもしれない。こしあん。


それでも私は、すでに綺麗な枝を飾るのではなくて、また桜の枝を整える母の姿を見たかった。なにより警察に「母は関係ないんです」と言いたい。


綺麗なフローリングや牛肉が幸せなんじゃない。年月が経ってもフジファブリックが歌っている。ボーカルは以前の人の方だ。私達はラジオを聞いて楽しそうな顔をお互いにバックミラーに認めながら、暗くて楽しい夜道を進む。


ああ、明日が楽しみだ。

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桜麦 ぽんぽん丸 @mukuponpon

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