脳筋の兄に虐げられた弟、故郷の国を出奔して幕府の名門武家の養子となる! 実家が滅びの危機になってももう遅い。

望月もちもち

第1話 蝶名林丹十郎 12歳

「兄上にわたしの気持ちなどわかるわけないでしょうっ!!」


 肩で息をし、情けなさと悔しさで零れ落ちそうな涙を溢さぬ様に強く瞳を閉じる。


「お、おい丹十!!」


 どこか呆けたような声でわたしに詰め寄ろうとする兄に向かい、わたしは地面に思い切り叩きつけて折った木刀の柄を声の方向へと投げつけた。

 木刀同士が撃ち合った乾いた音が屋敷の庭に大きく響いて、わたしはさらに情けなさと恥ずかしさで砂利を蹴り上げて兄上から逃げる。


 加瀬国かせのくに日置郡ひおきぐん痣伏あざぶせ

 山野に囲まれ、山から流れる河川の源流地であり、湿地帯でもある痣伏は加瀬国守護である黄金井こがねい氏の居城でもある能潟のがた城の柔らかい腹を塞ぐ重要な湖城だ。


 加瀬国に守護と呼ばれる大名家が設置されて以来、この痣伏には蝶名林ちょうなばやし氏が同じく加瀬国に下向し国内の秩序を作り上げていった。


 三州太守と呼称される黄金井氏の補佐として加瀬国守護代として任ぜら、黄金井氏不在の際に加瀬国の采配を任せられた家こそ、我が蝶名林守護代家である。


 その蝶名林氏の後裔こそが我が父蝶名林内蔵助くらのすけ利職としもとであり、我が兄である孫八郎利陽としはるであった。


 気がつけば、わたしは息を切らしながら痣伏の郊外に出て小さな川の側に居た。


 小川の水面に映るのは月代も剃っていない元服前の子供。

 肌の色はまるで乙女のように白く、全体的に肉もついていない細いと言われる姿。

 これがわたし──蝶名林丹十郎の姿であった。


 小川の縁に座り込み、ぼぉっと周囲の様子に目を向けた。

 川が流れるどぼどぼという音や、虫が鳴く甲高い声。そんな虫を狙おうとしている鳥たちの囀り。

 人の手の通わぬ自然の摂理の中に身を置くと今までの事がひどくちっぽけな事のように感じられ、否とかぶりを振るう。


「なにを馬鹿なことを言っているのだ、わたしは……」


 現実逃避も甚だしい空虚な妄想。

 或いは子供らしい不満故の逃げ。


 そう、わたしは逃げていたのだ。

 この辛い現実から逃避して。思う通りに動かない生涯を悲観していたに過ぎない。


 すべては己の無能の棚上げであり、周囲に対する無理解への怒りという名の八つ当たりでしかない。

 たとえそれがわたしが武働きに優れてないことが理由だとしても。この加瀬国ではそれが最も重用されるのだとしても。

 わたしを認めて欲しかった。


 兄や父に顔を合わせ辛く、そのまま小川で腰を下ろしながら黄昏てたところに、何やら草をかき分ける音がする。


 ──なんだ?


 わたしはその音に警戒し、小川の先にある雑木林が植わる川のたもとに注意を払い。


 瞬間、意識の埒外を突いて左肩から激痛が走り、わたしの肉を引き裂いて何かが貫通した。


「ぐぁ……ッ! ゔぅぅぅぅっ!!」


 痛みと衝撃で口から声が漏れ、命の危機に腰が抜ける。

 そこにあるのはまるで武士に似つかわしくない痛みと恐怖でうずくまる子供だった。


『──キキッ』


 喜悦に歪む獣の嘲笑がわたしの後背からにじり寄り、背中から冷や汗をかく。


『ゴチソウ! ゴチソウ!』


 赤い体毛に覆われた猿の姿をした妖獣。

 高い知能と山間を自在に駆け回る極めて危険性の高い知恵ある獣、狒々。


 人の幼子の肉を好み、妊婦の腹を割いて胎児を丸のみにするこの邪悪な妖獣はその狡猾さと卑劣さに於いてこの痣伏の民から非常に恐れられている。


 寝込みを襲われ、一家全員が食われて死んだとまで言われる事例があり人里に良く降り、明確に人を襲う怪物である。


 おそらく前方の茂みが揺らされ、意識をそちらに向かわせた隙を狙い背後から指弾によって石を弾いて肩を撃ち抜いた。

 その様子は正に人の行う狩りと同等の知恵とも言える。


 弱った獲物に対して有利を自覚したのか、大小さまざまな狒々が群れをなしてわたしの周りに集ってくる。

 良く見れば血に塗れた棍棒を携える個体もおり、おそらく棍棒で何度も身体を打ち付けて弱らせる魂胆であろうと推測する。


 舌舐めずりをし、目の前の肉に飛び掛からんとする狒々にゆっくりと棍棒を持った狒々が嗜虐に歪んだ顔でわたしの足に向かって棍棒を強く振り下げる。


「がっ、ああああああああ!!!!」


 痛い、痛い。

 ぶちぶち、と肉が潰れて何かが切れるかのような音がしてわたしの身体が悲鳴をあげる。

 そんなわたしの叫びが面白いのか狒々は嗤い、あるいはわたしの悲鳴を肴に拍手などをして楽しむ。


 何度も、何度も、何度も……。


 足を、手を、背中を。狒々はわたしに息をつかせぬようにと甚振り続ける。


 足の感覚がほとんどなくなり、喉が枯れ果ててしまったかのように声も出ず。

 股からは小水が流れて、目からは涙が滲み出る。


 狒々は反応の鈍くなったわたしにつまらなそうな表情を浮かべ、その大きな棍棒を高く振り上げ……。


 ──瞬間、狒々の頭が破裂して身体が崩れ落ちる。


「俺の弟に何をしやがるッ!!」


 その無駄によく響く声を持ち主をわたしはよく知っていた。

 紛れもなく兄上の声であった。


『──ギギっ!?』


 突然仲間の狒々の頭が潰れ、混乱のさなかにいる狒々は兄上の突然の奇襲に対して浮足立つ。


『ゲギャーーーッ!?』


 足元にある砂利ですら、兄上にとっては手頃な武器でしかない。

 蹴り上げた大小さまざまな砂利は狒々の群れに襲いかかり、彼らの身体を強く打ちのめすばかりが何体かの狒々は砂利をモロに喰らい身体をえぐられ襤褸ぼろ布のように死んでいく。


 その様子を見て狒々の中でも小柄な数体が山野に向かって逃げようとするが、兄上が投擲した槍によって腹を抉られまとめて三匹ほどがそのまま雑木林に着弾。狒々は磔となる。


『ホアッ、ホアホアホアホァーーッ!!!!』


 逃げ惑い混乱し無様に死んでいく狒々の中で、ひときわ大きな個体が雄叫びをあげて兄上に襲いかかる。

 おそらくは群れの主と言うべき存在なのだろう。体躯は六尺を超え、その大口は子供の頭であれば丸々入りそうなほどに大きく、爪牙は人の肉など簡単に貫けようと言うぐらいに鋭い。


 「舐めるなッ!! 猿如きがッ!!」


 そんな大柄の妖獣相手に兄上は怯むことなくその大口に無造作に腕を突っ込むと狒々は驚き戸惑い、苦しげに呻く。


『オォッ゙、オゴォォッ!!?』


 狒々は呻きながらも闘志はまるで衰えず、兄上の腕を噛み千切らんと兄上の腕を何度も咀嚼しようとする。

 群れの主としての矜持か、或いは責任か。狒々の主はその身一つで兄上に抗わんとするが徐々にその闘志に溢れていた瞳はぐるんと白目を剥いて意識を朦朧とする。


 その隙を見逃す兄上ではない。

 狒々の抵抗が弱くなった瞬間を見計らい、兄上は狒々の口に突っ込んだ腕を思い切り引き出す。


 ──狒々の口から掴み上げた臓物を引き摺り出しながら。


「エテ公如きが……俺のほうが強い」


 狒々の主は口からはらわたを抉り出され無残に死んでいった。


 後はもう、兄上の独壇場だった。

 瀕死の狒々の頭蓋を踏み砕き、腰を抜かして怯える狒々の腹を蹴り上げ臓物を破裂させる。

 知能の高い個体なのだろう。涙を流し両手を擦りながら命乞いをする狒々すら兄上は一切の慈悲なく頭蓋を締め上げて頭部が潰れて眼球が圧力で飛び出て耳から血と脳漿が吹き出させる。


 返り血に塗れ、数十は居た狒々の群れを単独で潰した兄上は息すら切らせることなくわたしのもとに駆け寄る。


「大丈夫か! 丹十!! 兄が助けに来たぞ!! もう大丈夫だ!!」


 わたしはよりいっそう、惨めになった。

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