第28話

「冗談じゃないわ!」


 思わず立ち上がった私に、ピッケが慌ててワイングラスを持ち上げる。


「おっと、奥様落ち着いて! 赤ワインが絨毯にこぼれたらトレフさん泣きますって。っていうか、染み抜きさせられるのおれなんで! 大変なんで、やめてくださいよ奥様」

「セシルってば、私が彼を好きになる可能性を『そんなことあるわけがない』って笑い飛ばしたのよ!? 都合の良い夢じゃあるまいし、って!!」

「……あー、うん。まあ」


 ピッケはグラスをそっと机に置き、肘をついて長く息を吐く。明らかに言葉に迷っている様子で


「おれ、どっちの気持ちもわかるんすよ。セシルとは幼馴染だから彼に肩入れしてる自覚はありますけど、でもまあ、一般的な恋愛観からしたら奥様が憤るのもわかります」


 わかるんすけどねえ、と言いながらヘルタに視線を投げる。視線の合った彼女は、コメントのしようがないというような態度で小さく首を左右に振った。

 

「どうしてそんな思考回路になるのかしら」


 再びソファに腰を下ろした私は、ふぅ、と背もたれに頭を預けて天井を眺める。

 ――恋って難しすぎない?

 そんな子供みたいなことを思って、目をつむる。


「まあ、セシルがどう思ってるのか、本当のところはおれたちにもわかんないっすけど。少なくとも、彼が奥様のことを好きなのは本当ですから、そこは自信を持っていただいて」

「……嫌な女にならない? それ」

「まあまあ」

「なんで、私がセシルを好きになるはずがない、なんてあそこまで強固に思っているのかしらね」


 彼は自分の手を血で汚れていると言っていた。だからその手で私に触れられないと言っていたのも覚えている。でもそれと、私が彼に好意を抱くかどうかは別問題なのでは?

 セシルは、あんなにも世の女性たちから憧れの目で見られるだろう要素で構成されているのだ。だったら、私だって惹かれる可能性はあるのでは?

 ――初対面時、まったくときめいた反応をしなかったのが遠因だったりするかも。

 1人考えて悶々としているとピッケがパチンと指を鳴らした。


「だから、そういうのを2人で話し合って、理解しあっていけばいいんじゃないっすか?」


 話し合い大事っすよ、とピッケは両手を広げ、まるでありがたいお話を聞かせてくださる時の司祭様のような態度だ。私と彼の話を黙って聞いていたヘルタが、ドライフルーツを薦めてくれる。


「話は変わるのですけれど」

「なに?」


 真面目な顔のヘルタが少し首を傾げて私を見つめている。いつまでも憤っていても仕方がないから、話題が変わるのは大歓迎だった。

 

「先程のお話ですが、奥様は旦那様を可愛いと思われたのですよね?」

「……私が好きすぎてあんな態度を取ってしまっているっていうのを知ったら、愛らしいと思ってしまったわ」


 あまりにも不器用だ。立派な騎士様だとわかっているから余計に、どこか愛くるしく思える。


「そうなのですね」


 考え込んでしまったヘルタの目の前で手を動かしてみるけれど、彼女の反応はない。どうしたことかとピッケを見れば、目を細めて口角を上げている。なんでそんな顔をするのか問い詰めようとしたところで、部屋の扉がノックされた。

 その瞬間「あ、ヤベ」と小声で言ったピッケは、慌てた様子でソファから跳ね起きて立ち上がる。ヘルタはというと、やっぱり、とでも言いたげな表情で静かに立つと、お盆の上に自分とピッケのグラスを手際よく並べて持ち上げた。


「奥様、それでは私たちはこの辺で失礼いたします」


 落ち着いた口調のヘルタに、私は戸惑いを隠せなかった。


「え? もう?」


 まだ話の途中では? と思ったが、それを口にする間もなく、ピッケがこちらを振り返ってにっと笑った。


「じゃ、ごゆっくり」


 へらへらした様子で手を振ると、彼は一歩前に出て扉の取っ手に手をかけた。扉が音もなく開けば、そこに立っていたのはセシルだった。


「お前たち、ここでなにを?」


 静かで低い声が響く。その声音には確かな圧がこもっていた。「お前たち」と言ってはいるが、彼の視線は完全にピッケだけに向けられている。まるで相手を射抜くような鋭い眼差しに、空気がぴんと張り詰める。


「奥様のお喋りにお付き合いしてただけだよ」

「私もおりましたよ、旦那様」

「………………」


 少し離れた場所にいる私にすら、その眼光の鋭さが肌を刺すように感じられる。凍てつくような空気に、思わず首をすくめてしまいそうだ。それなのにピッケは、まるでそんな圧など存在しないかのような笑顔で、あろうことかセシルの肩に片肘を乗せ、制止する暇もなく彼の耳元へと顔を寄せてなにごとか囁いた。途端にセシルの冷たい表情が崩れ、驚きと戸惑い、わずかな羞恥までも入り混じったような表情へと移り変わる。なにを囁かれたのか気になって仕方ないけれど、そんなことを口に出せる空気ではなかった。

 ピッケはセシルの肩を軽く叩くと得意げにウィンクして「じゃ、ほんとに失礼しまーす」と軽やかに部屋を出ていった。ヘルタも一礼するとピッケの後に静かに続く。

 扉が閉まると、私と未だに微妙な表情をしているセシルだけが残される。ふと視線を移せば、テーブルの上にはいつの間にやら新しいグラスが2つ置かれていた。


「ええと、セシルも飲む?」


 自然にしているつもりだったが、思いのほか甲高い声になってしまう。


「いえ、私は――」


 彼が断ろうとしたその言葉を遮るように、自分の胸に手を当てて寂しさを演出してみる。


「1人で飲むのは寂しいから、少しでいいから付き合ってもらいたい……って言っても駄目かしら」

「それでは、少しだけ」


 意識的に柔らかく微笑みながら言うと、彼は少し躊躇うように私の向かいのソファに腰を掛ける。そこは、今さっきまでピッケが座っていたところで、残っているぬくもりを感じたのだろう彼は、少々不愉快そうに顔を顰めた。


「ピッケが失礼をしてはいませんか。あまりに酷いようなら私からも話をして――」

「大丈夫よ。2人には少し相談に乗ってもらっていただけだから。色々と知らないことを教えてもらえて助かってるわ」

「そうですか」


 セシルはほんのわずかに俯き、テーブルに手を伸ばしてワインのボトルを静かに持ち上げる。その指先の動きまでも美しく整った所作だった。

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