第25話

 好き、という単語を口にしただけで少年のように照れている様子に、私はそっと微笑む。


「ありがとう」

「いえ。……それに、貴方の傷が癒えていないことも、多分わかっています」


 レディ・ミア、とセシルは優しく私を呼ぶ。


「お迎えにあがるのが遅くなって、本当に申し訳ありませんでした。私にもっと実力があれば、もう少し早く迎えに行けたものを」


 ――迎え?

 私がセシルと会ったのは結婚式の日がはじめてだったのに、彼はなにを言っているのだろう。


「それは、どういう意味なの?」


 しかしセシルは問いかけには答えず、柔らかく微笑んで返してきただけだった。きっと、まだ話せないことがあるのだろう。いきなり全部突っ込んで聞くのもいけないかしら、と距離の詰め方に迷っているうちに、彼はまた話しだした。


「私は、男なので」

「え? うん、そうね?」

「貴方を、怖がらせるのではないかと不安なのです」


 静かな調子で、彼は続ける。


「しかも、私の抱いている感情というのは、友人や、家族、仲間という意味合いではありません。1人の男として、女性である貴方を愛しているのです。そこにはつまり、昨日もお話したように、醜い欲も混ざっています」


 セシルの眉が寄り、苦しそうに端正な顔が歪む。握りしめられた拳は、まるで自分自身を責めているように見えた。


「あんな辛い思いをした貴方にそんな欲絡みで触れるだなんて、冒涜でしかないではないですか」

「……冒涜?」


 出てくる単語の強さにギョッとした私に気付いているのかいないのか、セシルは握った拳を振り上げた。


「ええ、冒涜ですとも。私は貴方を傷つけたくはありません。貴方を苦しませたくもない。過去を思い出して辛い思いをすることでさえ、絶対にしてほしくないのです」


 だから、この状況も本当は許せないのだ、と彼は言う。


「ええと、気遣ってくれているということよね?」

「下心のある男に触れられるだなんて、不愉快でしかないではないですか」


 その瞬間、私は軽く目を見開いた。

 不快なのは、好意を抱いていない相手から一方的にそういう感情を向けられることだ。彼の場合は、多分違う。

 ――だって私は。


「あの、セシル、だからね?」


 彼は私の言葉も聞こえないほど昂っていたのか、立ち上がって声を大きくする。


「だから俺は! 貴方に触れることなど許されるはずがな――」

「セシル!」


 話を聞いて、と少々大きな声を出せば、ハッとしたよう言葉を飲み込み、その場で固まる。そして気まずそうに目を伏せ、ゆっくりとソファに座り直した。

 一瞬の沈黙。


「セシルは、私を汚してやろうなんて思ってはいないでしょう?」

「当然です」


 彼の言葉に迷いはなく、音の響きは信念の強さを感じさせた。その声に、どこか安堵に似たものを覚える。


「確かにね、男の人が全然怖くないって言ったら嘘になるけど、でも本当に男性恐怖症などではないのよ。今の生活も男の人が多いけど、無理しているようには見えないでしょう?」


 黙って聞いているセシルの目が続きを促してくる。


「欲絡みで触れられるのは、ちょっとまだ拒絶感がないわけではないけど……それが一方的じゃなかったら大丈夫なんじゃないか、って期待はしてるわ。ちゃんと愛してくれている人になら、それから、私も愛しく思っている人であれば、いつかは私から触れられたいって思うこともあるんじゃないかと思うのよ」

「レディ・ミア……」


 セシルの顔が複雑そうに曇る。


「あの、ごめんなさい!」


 急に頭を下げた私に、セシルは慌てたように立ち上がる。


「レディ、どうなさったのですか。何故頭を……いえ、やめてください、私は貴方からそんな」

「昨日、抱き締めて好きって言って、って言ったのは、その、子供たちの愛情表現みたいなものを想像していて」

「……へ……?」

「好きって言葉も、そういうリアクション込みなら信じられるかも、って、私も幼い考えで言ってしまって」


 ぽすっ、と気が抜けたようにセシルはソファに沈んだ。


「ああ、なるほど。あれはそういう意味だったのですね」

「ごめんなさい。試すつもりとかは本気でなかったの。私も恋愛とか慣れてなくて、そこまで思い至ってなくて」


 私は、セシルがどんな気持ちで私を思ってくれているかなんて、全然想像できていなかった。申し訳なくて、恥ずかしくて顔を覆う。


「いえ、構いません。私こそ、変に身構えてしまって申し訳ありませんでした」


 彼は、ふっ、と息を抜くように笑ったようだ。しかし、私が顔を上げた時にはもう、その表情はいつものような真顔に戻ってしまっていた。


 私は、ピッケに指摘されるまで、セシルのことを1人の男性としてちゃんと考えたことがなかったのだ。彼から結婚を断ってもらうつもりだったこともあり、そしてすれ違いによる誤解が生じていたこともあり、セシルとまともに向き合う気すらなかった。

 私への求婚は人違いだろうと思い、その後に契約だけの関係だと一方的に割り切ってしまったことで、彼が私に対してそういう情や欲を抱いていると想像もしなかった。セシルを男性と認識していなかった一因がそれだ。

 つまり、彼を自分に興味がない『安全な相手』だと思っていた。だから彼が怖くもなかったし、嫌悪感も持たなかった。けれど、彼が私に対してどんな思いを抱いているのかを知っても、セシルに対して嫌悪感は抱かなかった。

 そういう、いわゆる肉欲含みで私を見ている、とはっきり言われても、彼が怖いとは思わなかった。でもこれが、ピッケやトレフだったら? 想像してみたら、少しだけ怖かった。

 セシルに対しての私の感情、それがどれほど特別なことか今さらながら思い知る。私は無意識に、彼だけを例外にしていたのかもしれない。

 それがどうしてかは、わからない。

 ――もしかして、一目惚れしていた?

 これはなにか違う気がする。もしそうなら、彼の真剣な想いをぶつけられた時に戸惑いよりもときめきが生まれたはずだ。

 色々あって、結婚にも恋愛にも無縁になってしまったと思っていた私。そんな私に結婚を申し込んでくれた人、夫となってくれた人から本当に愛されていたのだと知って、混乱している。

 ――ああ、でも。

 恋をするのなら、こんな風に一途に想ってくれているらしい人が相手だったら幸せだろう。そう思う。

 愛されたいからなんて考えで、彼を恋愛対象として考えてみようなんていうのは不純だろうか。そんなのは、彼に対して失礼にはならないだろうか。なんてことを一晩考えたけれど、答えは出なかった。

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