第20話

「それにしても、あいつとんでもない顔で戻ってきましたけど。奥様、なにやったんですか?」


 ピッケはワインの入っているグラスをくるくると回しながら、にやにやと笑っている。その口元は好奇心と悪戯心に満ちているようで、まるで面白いおもちゃを見つけた子供のように見えた。


「特になにもしてないわよ」

「でも、あんなに真っ赤になってるの、今まで見たことないっすよ。耳の先まで真っ赤でしたもん」


 ねえ? と話を振られたヘルタも真面目な顔で頷く。


「強く脛をぶつけたとおっしゃっていたので、急いで貼り薬をご用意しました。赤くなっていて、だいぶ痛そうでしたが」

「ん、確かにぶつけてたわね。そこ、テーブルのところにぶつかってたわ」


 ピッケの座っている前を指すと、天板をこんこん叩いた彼は「ここに? 痛そ」と苦笑いを浮かべた。


「奥様、そんなに動揺させるようなことをおっしゃったんですか?」

「今日まであんな態度を取っておいて、急に好きなんて言われても信じられないものじゃない?」


 だから、とグラスの縁を指先でなぞりながら、ぼそぼそと続ける。


「その言葉が本当だって証明したいなら、好きって言いながら抱き締めてみて、って。そう言っただけよ」

「いや、だけって奥様」


 ピッケが、盛大に噴き出しかけて手で口を覆った。ヘルタも驚いたように目を丸くしている。


「それ、奥様とんでもないぶっこみ方しましたね? とんでもなく高難易度っすよ。ただでさえ彼は呆れるくらいに生真面目だっていうのに、そんな男に対してそれは……おれ、ちょっとあいつに同情しましたよ、今」


 そんなに驚くこと? と思いながら私は続ける。


「それくらい、子供だってするじゃない。難しいことなんてお願いしてないわ。孤児院の子供たちが『ミアさん大好き!』って抱き着いてくるなんて日常茶飯事なんだからね?」


 難しいことは言っていない、と胸を張って言いきった私に、ヘルタがなにかを言いかけて――やめた。代わりに向けられたのは、憐れみの混じった痛々しいものを見るような視線だった。


「奥様……?」


 その言い方は、まるで「お気の毒に」とでも言いたげな色を含んでいて、思わず眉をひそめる。

 ――なんでそんな顔されなきゃいけないのよ。

 彼女が私にそんな表情を見せたのは初めてで、どういう心境からなのかと話を聞こうとしたのだけれど、口を開きかけた私を制するように正面から大きな溜息が聞こえてきた。


「だからそれ、子供の話じゃないですか。むしろ、子供だからできることですよ」


 ワイングラスを机に置いたピッケが、真顔になって続ける。


「しかも、こう言っちゃなんですけど、それしてくるのは奥様に恋してる子じゃないですよね? 奥様より年下でも、あいつだって成人男性ですよ。いきなり抱き締めてっていうのは、話すらまともに出来ないどころか奥様の顔を直視できないくらいな相手に対して、あまりにも酷だって思いません?」

「………………」

「それなのに奥様ってば『子供でも出来ることじゃない』って。それ、言います? いや、子供じゃないから問題なんでしょ。あれは成人男性で、奥様は成人女性、わかります? これ。なんでもない相手にだってしないでしょ」

「あら、やだ。」 


 ぽつりと零れたその一言は、私の本心から出たものだった。

 言われてみれば、彼の気持ちを子供たちからの『大好き』と同列にしてはいけなかったのだ。

 彼らの発言を総合して考えるに、どうやらセシルは私が好きすぎて触れることはおろか、顔を見ることも、日常会話をすることも難しいらしい。そんな人に対して、彼からのハグを子供たちからのそれと同程度に考えていた自分に気付き、重ね重ね申し訳なくなる。

 しかも冷静に考えてみれば、あの発言はあまりにもはしたない。成人男性に「抱き締めてくれ」だなんて、別の意味に取られても言い訳のしようがない。彼が軽蔑しなかったのを感謝すべき言動だった。


「違うのよ。あのね、突然好きって言われても急には信じられないから、ちょっと態度で見せてくれても良いじゃないって思って……子供たちみたいに、軽い調子で好きってハグしてくれたら、少しは実感沸くかもしれないなー、くらいの気持ちだったのよ。セシルのこと追い詰めようなんて、全然思ってたわけじゃなくて」


 必死に言い訳すれば、ピッケはまた溜息を吐いた。


「意地悪を言ったわけじゃないっていうのは想像できますし、今までのあいつの態度を思い出せば奥様が勘違いしてたのもまあ仕方ないことなのか? って思いますけどね? それにしても……それはセシルが可哀想ですよ」


 彼の言うことはごもっともでしかなくて、私はぐうの音も出ない。


「いやー、奥様も大概だったんですね。こりゃ、思っていたよりもどっちも重症みたいっすね」

「そんな風に言うなんて、ピッケはよっぽど恋愛経験豊富なようね」


 少々気分を害して嫌味で言えば「おれ、モテますから」とにんまりされる。否定されないのが腹立たしい。そして、私の言動に呆れたのか、ヘルタもピッケを窘めてくれなくなってしまった。


「にしても、セシルのやつとことん拗らせてますね。いっそ面白くなってきました」


 先程からピッケは主人に対してあまりにもざっくばらんな言い方をしているが、これは当人から許されている態度なので、この屋敷内においてはなんの問題にもなっていない。

 初日、彼らのセシルに対する言葉遣いや態度は全部お互いに了承済のことだから、あれこれ気にする必要はない、と言われた。それを私だけ身内ではないと言われた気になっていたのも、今となれば被害妄想だったのだろう。

 今現在は使用人と雇い主という立場であっても、彼らは古い付き合いの友人同士なのだという。使用人というのはあくまでも名目上の呼称であって、セシルはピッケたちを家族同然の扱いをしているように見える。だからこそ、ピッケやウルのあの態度なのだ。

 さすがにトレフとヘルタは雇われて以降それなりの態度を心掛けているというのだけれど、それでも時折家族間に漂うような慣れた空気が流れているようだ。結婚式後のお茶会の時に彼らの態度に驚きはしなかったので、身内以外の人間がいる場所ではピッケやウルもそれなりの言葉遣いをしているのもわかる。しかし、そもそも2人は外部の人間と接する機会の少ない仕事内容なので、そんな機会は滅多にないらしい。

 らしい、と伝聞になってしまうのは、私がここに来た初日以外、屋敷の外の人がここに出入りしているのを見ていないからだ。


「そういえば、昔からの知り合いとか友人としか聞いていないけど、いつからセシルとはお付き合いがあるの?」

「小さい時からっすね」

「ヘルタは?」

「私も、ウルもトレフも、ほぼ同じ時期に旦那さまと知り合っております。もう10年ほどになるでしょうか」

「あー! 奥様、そういう内容こそ、セシルとの会話のために取っておくべきですよ。自分のことじゃなきゃ、口も軽くなるかもしれませんからね」


 まずはそういうところからお互いを知ることをはじめなきゃダメっすよ、とピッケはもっともらしい顔で言う。その意見には一理も二理もあって「じゃあ今度セシルに聞いてみるわ」と私は背中をソファの背凭れにつけた。

 ――確かに、まずは会話からかもしれない。

 まだお互いに……いや、私が彼を知らなさすぎる。


「そうね、こういう時は――まずはお友達からはじめましょう、って言えばいいのかしら」

「もう結婚してるじゃないですか」

「じゃあ……どうすれば?」


 自分で考えてくださいよ、と飽きたのか少し冷たくなったピッケに対して、ヘルタは優しかった。


「そうですね。旦那様もご自分の態度を反省なさったでしょうし、まずはおふたりでお喋りをなさってみてはいかがですか?」

「お喋りね! お互いを知るには重要よね。うん、やってみるわ」


 私はぐっと拳を握り締めた。

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