第15話

「今大きな声が聞こえたようですが……なにか問題がありましたか?」


 ひょい、と厨房を覗いてきたのは執事のトレフだった。


「いえ、その、たいしたことではないのだけど」


 あんな大声、はしたないと思われただろうか。少しばかり気恥ずかしさを覚えつつ、先ほどのやり取りを説明すれば、トレフはふっと目を細めた。


「なるほど、そういうことでしたか」

「私ったら、早合点してしまって恥ずかしいわ」

「初対面でウルを男だと見抜ける人の方が少ないのですから。奥様の勘違いも仕方のないことですよ」


 さり気なくフォローしてくれたトレフは、1人だけ先ほどと変わらないきちんとした格好をしていた。ビターブラウンの短髪は丁寧に撫でつけられ、藍色の静かな瞳には、冷静さと誠実さが漂っている。

 見た目は完璧な執事で、低音の声も、落ち着いた物腰も、文句のつけようがない。


「なにか気掛かりなことはありませんか?」

「ううん。ありがとう。なにも問題はないわ」

「なにかありましたら、いつでもおっしゃってください」

「それ、さっきピッケも言ってくれたのよ。この屋敷のみんなは優しいのね。安心して生活できそう」


 そんな感想を漏らせば、トレフとヘルタは顔を見合わせて柔らかく微笑み合う。

 この屋敷の使用人たちは、全員気持ちの良い人たちのようだ。異物でしかない私のような新参者にも嫌な顔一つせず接してくれて、ささくれていた心が少しずつ軽くなっていくのがわかる。

 ――早く馴染めると良いのだけど……

 当主にあまり好かれていなさそうな点を除けば、ここの生活にさしたる不安はなさそうだと感じる。


 そして軽めに用意された夕食時も、予想通りセシルと目が合うことはなく、当然会話らしい会話もなかった。

 屋敷内を見て周り、使用人たちと交流したという私の話を聞いても、彼は特に反応を返さなかった。仲良くなるなと言う気もないらしい。

 食事が終われば彼はさっさと部屋に戻ってしまって、翌朝私が起きた時にはもう仕事に出てしまっていた。


 気づけば、屋敷に来てから二週間が経っていた。

 相変わらずセシルとの会話はほとんどなく、顔を合わせる機会は朝と夜の食事の時くらい。やはり騎士団の副団長ともなると、私の想像もできないほどに多忙なのだろう。彼は毎朝早くに仕事に出てしまい、夜は帰ってきて食事を取るとすぐに自室にこもってしまう。

 すぐ近くにいるのに、セシルの人となりは全然わからないままだった。

 その代わりといってはなんだけれど、使用人たちとはすっかり打ち解けていた。

 なにもしないのは落ち着かないので、今まで通り孤児院に通う時間以外は、少々屋敷の仕事を手伝わせてもらっていた。ピッケとは庭の花の世話をしながらお互いに教え合った歌を口ずさんだり、ヘルタとは洗濯物を干しながらお茶の好みを語り合った。ウルが作ってくれる南方風の甘辛いスープにハマり、毎日の献立を一緒に考えさせてもらうのも楽しい。私の知っていたお菓子のレシピも、彼はすっかりものにしてしまったようだった。

 トレフと交わす何気ない挨拶の中には心を和ませてくれるような気遣いが込められていて、日々は静かに過ぎていき、私自身もこの屋敷に少しずつ馴染んできているのを感じていた。

 けれども、主であるセシルだけは、まったく手の届かない存在のまま、目が合うことすらまれだった。


「今週末、年に一度の騎士団の慰労会が王城で開催されます」

「あら、そうなんですね。それにはやっぱりセシルも参加なさるの?」

「はい、私も招待されております。……つきましては、どうしても嫌だとおっしゃるのなら強制するつもりは一切ありませんが、可能なら貴方にも同行していただきたいのですが」

「まあ、私これでも一応セシルの妻ですものね。そういう場にはご一緒するつもりではいたから……はい、ご一緒させていただくわ」

「――ありがとうございます」


 記憶にある限り、朝晩の挨拶や一言二言でない会話はこれだけだった気がする。

 改まって礼を言われてしまうほど、私という存在は、彼にとって『妻』というポジションにはいないらしい。こんなものが結婚して以来最長の会話だった辺り、どれくらい私と彼が擦れ違っていたのかわかるというものだ。

 騎士団の慰労会という存在自体は知っていたものの、長年社交界から逃げていたせいで時期を把握しておらず。なにも準備などしていなかったせいでドレスのことが悩みどころになった。

 慰労会当日まではあと3日。この短期間でドレスを新調するのはほぼ不可能だった。仕方がないから実家に置いてきた礼装のひとつを送ってもらおうかしら、と思っていたのだけれど、そんな会話をした翌日、テラスのある部屋に呼び出された私は目を真ん丸にした。

 そこには、私の寸法にぴったり合う1着のドレスが飾られていたのだった。

 旦那さまの騎士団の正装に合わせたかのような、銀に近い艶やかなグレーの生地、アイスプルーとエメラルドグリーンの糸でまるで氷の蔦のような繊細な刺繍が施されているドレス。胸元の開きは控えめで、袖は手首まで隠れる長さ。最大限に露出が抑えられた品の良い一着だった。

 ――見苦しいから、年増は肌を出すなってことかしらね。

 伝統ある形式ではあるものの、今の流行ではないデザインだということくらいはわかる。内心溜息を吐きつつ、男性に見られるわけにはいかないのでトレフには一旦下がってもらう。1人で試着してみれば、サイズだけではなくデザイン含めて存外に私に似合っているように見えた。

 鏡に映った自分は、意外なほど品良く、おしとやかな『奥様』だった。しっとりと落ち着いた雰囲気に、これが私? と我ながら驚く。


「このドレス、いつの間に?」


 という私の質問に


「奥様のドレスをご用意するのは、私どもの仕事ですから」


 様子を見に戻ってきてくれたトレフが「お似合いです」と笑顔で返してくる。

 ――この刺繍の細かさ、仕上がるまでに数か月はかかりそうよね?

 偶然、ちょうどいいデザインのものでもあったのだろうか。いや、それにしては都合が良すぎる。どう考えてもオーダーメイドだろう。

 ――どこでサイズを把握したのかしら。

 疑問に思いながら、ありがたく受け取ったそれを身に着けて、今日催された祝賀会に参加したのだった。

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