第8話
「ミア! 私はいつか、お前のことをわかってくれる人が現れてくれると信じていたよ! それがまさか、あの噂に名高き“氷晶の閃光”だとは……! ああ、これはずっと耐え続けたお前への神からの祝福なんじゃないか?! そうに決まってる!!」
「お父様、落ち着いてください」
「落ち着いてなどいられるか!」
「まずは、何故私にこのようなお話が来たのか説明してくださいませんか」
興奮して顔を赤くしている父の隣で、母はハンカチを目元に当てながら微笑み、そっと頷いていた。けれど、その口からこぼれた言葉は、意外なほどに鋭かった。
「私たちにも理由はわからないけれど、でもあなたを是非にというお話なのよ。お手紙にもそう書いてあるでしょう?」
柔らかく上品な声音。穏やかな口調で話しながらも、母の瞳の奥には、容赦のないプレッシャーを感じる。
「これを逃したら、あなたもう絶対に結婚出来ないでしょう? この千載一遇のご縁を棒に振るだなんてこと――しないわよね?」
母の目尻からは、きらきらと美しく涙が零れ、頬を伝っている。見た目には完璧な良家の婦人の振る舞い。だが、そんな母の態度は、私にとってはとんでもない圧としてのしかかってくる。
――そう、私はもう三十なのだ。
とっくに結婚していて良い、それどころか子供が数人いてもおかしくない年齢だ。現に、かつて交流のあったご令嬢の中で私以外に未婚の者はいない。
何度「結婚なんてしなくていいのです。私は、別の生き方をします」と言っても、父とラブラブな母からすれば結婚こそが女の幸せなのだろう。父と今でも手を繋いで歩くような恋愛結婚の成功例である母にとって、結婚は人生で最高の栄光なのだろう。
それだけが幸せではないと思います、という私の言葉にも「貴女は愛し愛されることの素晴らしさがわかっていないだけ。女は愛されてこそ輝くのよ」と耳を貸してはくれない。
そう断言されれば、私の中にあるささやかな自立した女という価値観など、あっさりないものとして扱われることになる。
しかもこの国では、それが一般的な意見であり、正論として通ってしまう。母だけが特別夢見がちな考え方をしているわけではないのだ。
むしろ、私は少数派だ。だから反論をしたところで母の耳には届かない。それをわかっているから、小さく唇を噛むことしか出来なかった。
ミア・ルノー。
ルノー子爵家の一人娘で、訳ありな行き遅れ。ぎりぎり20代ならまだしも、もう30になっていて、実家に特筆すべき資産があるというわけでもない。どう考えても、見目麗しいと噂の才気溢れる副団長が結婚を申し込むような相手ではない。
彼の得た爵位こそ一代限りだが、その若さと実績、美貌を備えた人物なら、ある程度の家柄のご令嬢になら手が届くはずだ。若く、家柄も整い、美しい令嬢たちの中から、いくらでも相応しい相手を選べただろうに、なんで。
20歳前後で結婚する娘の多いこの国において、結婚適齢期をとうに過ぎたハイミスにわざわざ求婚してくる理由が一切合切わからない。そもそも彼自身はまだ20歳そこそこだった気がする。なおさら、一回り近く年上の私を選ぶ意味がない。
これで私に特出すべき才能でもあれば良いのだろうけれど、残念ながら私は平凡な容姿に平凡な教養、あらゆる部分で平凡を極めているので、そんなものには当てはまらない。
当然彼との面識などないから、人知れず密かに愛を育んで来たというロマンティックな話もない。
――なにか裏があるのではないか?
そう思うのは、きっと私だけじゃない。世間もそう考えるに決まっている。
もしかして人違いでは? と思いたくもなるが、名指しで届けられた求婚状と直筆のサインが、その考えを正解だとするのを難しくしている。
仮に年上好きなのだとしても、私よりは若く、経歴に問題のない未婚女性は貴族平民を問わずたくさんいる。この国には、私よりも「選ばれる理由」を持った女性が星の数ほどいる。
むしろ私には「選ばれない理由」しかなかった。
――訳あり、ねえ。
その言葉を自分から思い出しておいて鬱々としてくる。もうすっかり振り切ったはずだった、喉の奥がつかえたような粘度の高い感情がこみ上げてくる。
私が訳ありと噂されるようになったのは、18の頃に起きたある出来事のせいだった。
その当時、家柄も釣り合い、性格も穏やかなちゃんとした婚約者がいた。結婚が決まり、嫁入りの準備も整い、あとは彼の領地へと向かうだけ――しかし彼の元へ輿入れする道中、私を乗せた馬車は賊に襲われてしまったのだった。
ちょっとした油断から、私は高価な嫁入り道具もろとも人攫いに捕まり、数日間行方不明となった。
貴族令嬢の誘拐事件など、大事件だ。誰だって、当然すぐに助けが来てくれると思うだろう。だが、その期待は虚しくも裏切られた。
輿入れのために通らせてもらっていた領地にはなにやら政治的な事情があったらしい。救出の手はすぐには差し伸べられず、救出までに数日を要した結果、ようやく助け出された時の私はボロボロの下着に身を包み、髪も肌も泥にまみれた無惨な姿だった。
そこから連想されるのは――ミア・ルノーは、賊に穢された身体となってしまった、ということ。
高潔であるべき貴族の娘が、下賤な輩に辱められた。そんな想像が、誰の口からともなく事実として語られていった。
処女性を重視される貴族間の婚姻において、これは致命的だった。非処女、しかも賊に手籠めにされたかもしれない女になどなんの価値もない。むしろ卑下されるだけの存在だ。当然、婚約は解消され、私は『傷物令嬢』の名を授かった。
これに関して相手方を責めるつもりはない。後ろ暗い過去を持つご婦人など、彼にとっても損でしかなかっただろうから。下手に同情され、ずっと疑われたまま愛されることなく籠の鳥にされなかっただけ、今となればありがたくもある。
それに、そんな事情であれば彼にも同情が集まる。そのおかげか、あの人はほどなくして良縁に恵まれたらしいと風の噂に聞いた。皆から祝福され、彼の領地で幸せに暮らしているのだろう。
問題は私だ。ただの婚約解消ならば、別の縁を望むことが出来た。多少とうが立っていても、どこぞの多少訳ありな貴族に娶られるなり、後妻に求められるなりという道があっただろう。
けれど、私のような傷持ちには、それすら望むことが出来なかった。穢れた身体だという噂は、どんな場所でも私に纏わりつき、決して拭えなかった。
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