第3話
「……ご無沙汰しております、バルブ伯爵」
「そんな他人行儀な。以前のようにユベールと呼んでくださって良いのですよ。それにしても、久し振りにお顔を見られて安心しました」
にこやかに微笑みながらも、話し掛けてきた男の言葉や態度にはわずかな圧が含まれていた。
10年以上前、私がまだ社交界に顔を出していた頃、彼と私の実家は商売において多少のご縁があった。その為、私とも顔見知りではあったのだが、当時伯爵家の嫡男として期待されていた彼は今や爵位を継ぎバルブ伯爵家のご当主となっていて、一方の私は現在男爵夫人という立場だ。たとえ顔見知りとはいえ、気安く話すことには抵抗があった。
それに。
「ご結婚、なさったそうですね」
「はい」
私が頷くとバルブ伯は柔和な笑みを浮かべ、祝福するかのように大きく両手を広げた。だがその口から出たのは、仕草から連想するものとは程遠い。
「おめでとうございます。しかし、どのような経緯で? 貴女のような女性を妻に選ぶ男が存在したとは……いやはや驚きですよ。慈善事業の一環でしょうか? それとも、あの一件をセシル・ベルトランはご存じないとか? 彼は確か、平民の出でしたよね。10年も前の貴女の過去を知らなくても無理はない。まさか、すべてを隠してご結婚を――」
爽やかな笑みを浮かべながら、彼は畳み掛けるようにこちらの傷を抉るようなことを言ってくる。でも、そんなことで傷付いてなんかやるものか。笑顔を浮かべたままやり過ごそうとしていた、その時だった。私の目の前にマントが翻った。
まるで私を守るかのように立ったその背中を見上げる。
「お初にお目にかかります。私、王立第四騎士団副団長、セシル・ベルトランと申します。我が妻がなにか失礼を致しましたか」
セシルの声は低く抑えられているが、明らかに普段よりも冷たかった。バルブ伯は目を細め、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。
「私はユベール・バルブという者だ。彼女のご実家とは古くからの付き合いでね。少々、昔話に花を咲かせていたところなんだよ」
「昔話……なるほど、そういうことだったのですね。お邪魔をしてしまったなら申し訳ありません」
セシルはそう言って頭を下げるが、その仕草に形式的なもの以上はない。背中から見ている私には彼の表情はわからないのだけれども、声からしても愛想良く言っているとは思えない。ただ、視線はまっすぐ対峙している相手に向けられているようだった。
「ところで、ぜひセシル殿のお耳に入れたい話があるのだけどね」
いかにも親切そうな顔をしたバルブ伯は、内緒話をするように声をひそめる。まるで誰にも聞かれてはいけない話をするかのよう。一歩近付いて来ようとした男を、セシルは手で制する。
「――妻の過去についてでしたら、すべて了承しております。私と妻の関係についてはご心配には及びません。お気遣いの必要もありません」
きっぱりと言い切ったセシルに、バルブ伯はわずかに眉をひそめたが、すぐにまた作り笑いを浮かべる。セシルはなおもなにか言ってこようとしている伯爵を流すように私の腰に手を回し、支えるような姿勢を取るともう一度だけ形式的な礼をしてその場を離れた。
「良いの? あんな態度取って」
私は小声でセシルに尋ねる。真正面を向いたままの彼は、こちらを見ることなく同じく小声で答える。
「彼らとは今後密接に関わることなどないでしょうから。どうでもいいですよ」
「どうでもいいって……ちょっとセシル」
私を庇うようにバルブ伯との間に立ち、毅然とした態度で言葉を返したあの様子。あれを見ていた人々の視線が、今もちらちらと私たちの背中に注がれているのを感じる。明らかに妻を庇った様子の彼の態度は注視されているようだ。
「このままじゃ、まるであなたが愛妻家のような噂が立つかもしれないけど?」
「……愛妻家」
ピクっとセシルの眉がわずかに動く。
「別に、構いませんよ」
「その方が、良い寄ってくるご令嬢も少なくなるかも、って? 甘いわよ。女の執着って、それくらいじゃ消えないものよ。むしろ、私から奪ってやるくらいの心積もりで来るかもしれないわ」
セシルがふっと口元を緩める。笑った? と驚いて横顔を見つめると、彼は珍しく私の方へ視線を向けてきた。
「私は、あの方々にはまったく興味がありません。無駄な努力をするだけになるかと」
「若い子に言い寄られたら、あなただってもしかしたら」
「ありません。そんなことは、絶対に」
セシルはいやにきっぱりと言い切る。いつになく強い語調は、冗談に聞こえない。まるで切り捨てるかのような否定に少し驚いてしまった。
今も、彼は私の腰に手を回しているように見せかけているだけで、実際にはドレスにもほとんど触れていない。それどころか、結婚してから一度だって彼に触れられたことはないのだ。
「まあ、私に触りたいと思うような奇特な男の人なんて、いるわけがないわよね……」
その言葉が自分の口から洩れたことに、私は気付いていなかった。
帰りの馬車の中でもセシルはこちらを見ることはなく、会話もない。それはいつものことだったから、私はなにも思わなかった。
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