第32話 僕の願い、彼の望み
漆黒の闇の中に残されて、僕は覚悟したはずだった。
それなのに今、瞼に眩しさを感じている。
何が起きたのか、あれは夢だったのか。
少しずつ頭の中の靄が晴れ、僕はゆっくりと目を開けた。
「ノア……っ」
僕を見下ろす、美しい蒼い双眸。
あの魂の核と同じ色だ。
瞬きを繰り返しているうちに、目だけではなく顔がわかるようになる。
痛みを堪えるかのように眉根を寄せ、僕の顔の両側に手を突いて名前を呼ぶ人。
僕は両腕を持ち上げて、その頬にそっと触れた。
滑らかな頬はから伝わる体温。
僕は、ホッと息を吐いた。
「良かった……生きている」
発した声は掠れていて、自分でも聞き取りにくい。
だが、相手には届いたようだ。
「それは、私の台詞だ。君を、失うかと──」
途端に、一筋の涙がフェリルの頬を伝う。
この人が泣くなんて、僕は想像したこともない。
こんな顔で泣くのかとぼんやり見上げ、目元を拭おうとすると、フェリルは僕の指先を捉えた。
「お前を失う私の痛みは、考えなかったのか?」
「フェリル、僕は──」
詰るようにフェリルは言い、それに反論しようとしたところで、唇が重なった。
触れ合うだけのキスを繰り返す唇は、微かに震えている。僕はこんなに、フェリルを悲しませ、追い詰めてしまったのか。
背中に腕を回して、僕もそのキスに応えた。
「はい、そこまで」
キスを続けている僕たちに、カーテンの向こうから声がかかった。
そして、「開けるぞ」と言うと同時に、フォースター先生とアレン先生が入ってきた。
フォースター先生はすぐに僕の診察を始め、アレン先生がフェリルに注意している。
「ノアが目を覚ましたのなら、すぐに呼びに来ないか」
じろりとフェリルを睨んだ後、フォースター先生と一緒に僕を診た。
「大丈夫そうだな。安定してきている」
そう言って屈めていた身を起こし、フォースター先生は僕と後ろに控えていたフェリルを交互に見た。
「生命力が低下したフェリルを救出するために、ノアは力を使いすぎた。その上、今度はノアを救い出すために、フェリルが力を注いだというわけでね。どちらの身体にもかなりの負担がかかっている。よって、君たちには療養が必要だ。最低でも1週間はかかる」
1週間も授業に出られないのかと抗議しようとした僕を、アレン先生は先に制した。
「お前たちは2人まとめて隔離するから、しっかり魔力と体力を回復させるんだ。もし、回復する前に出てきたら、今度こそ停学にするぞ」
停学はもちろん避けたい。
だが、隔離と言われて、僕は不思議に思った。
生命力が枯渇しただけで、感染症ではない。
それなら、他人に感染るわけでもなく、隔離は必要ないはずだ。
僕の疑念は晴れないまま、立てるようになったところで、フォースター先生は僕たちを医務室のある棟の奥へと連れて行った。
「ここなら外から何も見えないし聞こえない。好きに過ごすといい。ちゃんと、3食ドアの前に運ばせるから、心配は要らない」
「あの……回復って」
入院するのなら、こんなところに隔離せずに、医務室の近くでいいはずだ。
なぜ、こんな場所に閉じ込めておかなければならないのか。
だが、フェリルの方では納得したようで、細々とした説明をフォースター先生から聞いていた。
「ではな」
そう言ったかと思うと、扉を閉め、鍵まで掛けて出ていった。
僕はフェリルと二人取り残されて、しばらく考え込んでしまった。
すると、フェリルは僕の頭の上に手を置き、撫でてくる。
「お前は魔力を注ぎ過ぎたんだ。ちゃんとバランスを取るために、生命力を高める必要がある。少し休んだら始めるから、そこに座れ」
生命力を高める。
それなら、僕たち二人を閉じ込めるより、魔力保持者から分けてもらう方がいいのではないのか。
僕の疑念がフェリルにそのまま伝わったらしく、呆れたように溜息を吐かれる。
「互いに生命力を高め、与え合い、均衡を保つ。そのやり方くらい、お前も知っているだろう」
そこまで言われて、僕はようやくその考えに至った。
まさかと思ってフェリルに問いかける。
「つまり、その……僕とフェリルが、身体を繋げるということですか?」
「そうだ。互いに注ぎ合ったせいで均衡が崩れたのなら、また繋ぐのが手っ取り早い。ここで数日交わっていれば、すぐに回復するだろう」
ということは、フォースター先生もアレン先生も、そういうつもりで僕たちを隔離したのか。
一気に顔が熱くなり、僕は顔を俯けた。
そこまで知られているなんて、思ってもみなかった。
「お前はなぜ、私にあんなことを言ったんだ?」
ベッドに座る僕に、フェリルは正面に立って問いかけてきた。
「あんな、こと?」
「もう忘れたのか? 私がいないと生きていけないとかなんとか」
そう言われて、フェリルにしっかり聞こえていたのだと僕は分かった。
──「あなたがいないと、僕は生きていけない。お願い、フェリル。一緒に帰ろう」
「あれは……」
嘘ではない。
本当に本心から僕はそう思ったのだ。
好きになっても、そこまでは至るまいと距離を取り、踏みとどまってきたというのに、
僕が、顔を俯けたまま答えずにいると、フェリルは尚も言った。
「お前は、1人で生きていくと決めて、デクスターに来たんじゃないのか?」
「どうして……」
今度こそ僕は顔を上げて、フェリルに問いかけた。
そんなこと、フェリルが知り得るとは思えない。
だって、あれは一度しか口にしていないのだから。
すると、フェリルは腕を組み、僕の表情を見ながら言った。
「入学試験の時に、私はお前の面接に立ち会っている」
「……っ」
あの場には、学長と教員、そして記録係がいた。
だが、フェリルのことは記憶にない。
まさか、あの場にフェリルもいたというのか?
あの頃の僕は、人生に疲れ切っていた。
兄の友人たちや学校のクラスメイト達から向けられる欲望。
まだ15になったばかりの僕に、見合いの話を持って来る親戚たち。
それに乗り気になっている家族。
きっと、今すぐにでも結婚させて、家から出したかったのだろう。
兄も弟もいるのだから、厄介事ばかり引き起こす僕は、邪魔になっていたに違いない。
僕は何度も消えたいと願い、家を出ることを考えた。
そのうちの一つとして縋ったのが、カレッジへの入学だった。
あそこに行けば、家に居なくて済む。
学業に専念している間は、さすがに誰も僕の所有権で揉めないだろう。
だが、その後は?
卒業して家に帰れば、また同じ目に遭うかもしれない。
結婚で済めばいいが、今度は、もっと力のある存在に求められて、自由が利かなくなるかもしれない。
僕は、誰かの欲望に晒されるのも、それに人生を左右されるのも嫌だったし、自分を消したくもなかった。あんな奴らのせいで消えるなんて、敗北を認めるようなものだ。絶対に負けたくない。
だから、力を求めた。
一人で生きていく力。
自由に呼吸のできる場所を手に入れる。
そのためなら何だってする。
だから、面接試験の時に志望動機を問われて言ったのだ。
──『僕は、一人で生きていくための力を得たくてデクスター・カレッジを受験しました。僕は、僕だけの力で立てるようになりたい。誰にも踏みにじられず、誰にも奪われず、僕は自分の人生を生きていきたいのです。そのためなら、友人も要りません』
今考えれば恥ずかしい答えだ。
あの時の僕は、それほどに追い詰められていた。
それを、フェリルに聞かれていたなんて──。
「お前があの場から去った後、教員たちの間でも賛否が分かれた。もちろん、受け入れられない人もいるだろう。だが、私はお前に強烈に惹かれた。私の周りに、お前のように考える人間は皆無だったからだ。誰でも楽な方に流れていく。それでも、一人で立とうとするお前が、私には眩しかった」
フェリルは過去を思い出すかのように、宙を見つめて続ける。
「お前の願いを叶えるためには、私さえも邪魔だろう。傍には行けない。見守るしかない。ただ、想うことを許してもらうだけでいい。私のことには気づかなくていいと思っていた。──だが、あの事件が起きた」
あの事件と言われて、マックスたちの顔が浮かんだ。
あれが、決定打だった。
僕は脅威にさらされ、打ちひしがれていた。
それを救った人物に、僕は初めて欲望を知った。
自分の中にも、他人に対して欲情することがあったのだ。
キスをされ、身体を弄られて、僕はその先も強請った。
僕は、あの時に初めて、他人を追い求めるようになった。
謝罪したいという思いだけではない。
僕は、助けてくれたその人に、会いたかったのだ。
それまで誰一人必要ないと思っていた僕にとって、初めての感情だった。
フェリルを探し、追い求めていた時のことが思い出されて、僕はぎゅっと拳を握り込む。身体が強張り、自分の歪んだ想いを改めて感じた。
僕が考えていると、フェリルは僕の顎先を捉えて、上向かせた。
「お前を手に入れるのは、私にすれば容易かっただろう。お前はまだ性に対して脆かった。快楽に堕とし、自分のものにしてしまえば、もう私から離れられない。だが、お前の理想を知っていたからできなかった」
両掌で僕の頬を包み込み、熱のこもった視線で僕を見る。
「あとから、どれほど悔いたか。あの場で、自分のものにしてしまえば良かったと」
僕が考えていたように、フェリルも僕を求めていた。
だが、その感情を止めさせたのは、誰でもない僕だった。
僕の想いを受け入れてしまえば、それは僕の願いを壊すことになる。
フェリルも僕と同じように惑っていたのか。
あの頃の自分の愚かさが身に沁みた。
一人で生きていきたい。
それなのに人を嫌いになれず、力にはなりたいと願う。
僕の想いは矛盾を孕んでいた。
一方的に僕から感情を寄せておいて、相手が好きになってくれると拒み出す。
手に入った途端に捨てる。
なんと傲慢で身勝手だったのか。
フェリルは僕の足元に跪き、僕の手を取って唇を押し当てた。
「お前が、私に何かを捧げる必要はない。私がすべてをお前に捧げる。奪うのでも従えるのでもない。だから、私にお前を愛させてほしい」
なぜこの人は、ここまで僕に言ってくれるのだろう。
どうして僕は、ここまで言わせてしまったのか。
胸の中がざわつき、喜びと哀しみを同時に感じた。
「フェリル」
名前を呼ぶ声が涙声となり、僕は何とか心を落ち着かせながら告げる。
「僕は、あなたのものになりたい」
フェリルになら、僕を独占し、閉じ込めてもらいたい。
何もかも奪われても、フェリルならいい。
僕は本当に未熟で、あまりにも子供だった。
僕は誰のことも、理解できていなかった。
欲望だけじゃなかったのに。
僕を愛しているからこそ、求めてくれた人もいたというのに。
フェリルは、僕の手の甲にもう一度キスをしてから、僕を抱き締めた。
僕もまた、フェリルの背中に腕を回して、抱き締め返した。
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