第1章:余剰の身体

目を覚ました瞬間、身体が土に沈んでいた。

足元には冷たい水。ぬかるんだ泥。

ふくらはぎまで浸かった田んぼの中で、自分が腰を下ろしているのがわかった。

視界に映るのは、低い空と、首を垂れた稲穂。

風にそよぐ稲の葉の音が、まるで遠い記憶の中の音のようだった。

肌にまとわりついているのは、麻布の粗末な衣。

胸には小さな木札。子どもの筆跡のような歪な刻印がある。だがそこに文字はなかった。

そのかわりに、音が浮かんだ。

(カジワラ……?)

札に書かれているのは、自分の名前。けれど――

(文字じゃない。これは……“音の名”だ)

文字文化が、まだ成立していない。

言葉はある。記憶もある。

だが“記録”は、まだこの社会に存在していない。

それはつまり、ここが――弥生時代の終わり、列島に制度が芽吹き始めたばかりの時代であるという証だった。


田から上がると、村の中心にある小さな高床の倉が見えた。

湿った空気の中で、米の匂いが濃く漂っている。

それはまだ「神聖」ではなく、「保存と分配の匂い」だった。

彼――カジワラは、その倉を管理する役目を与えられていた。

村の中心に位置する“くらばん”。

刈り取った稲を干し、脱穀し、家ごとの分配量を決める係。

老人の言葉では「米を見る者」。“み”とも、“よ”とも聞こえた。


日が沈みかけたころ、一人の少女が籠を抱えて現れた。

腕は細く、足は泥にまみれている。籠の中には濡れた稲穂が積まれていた。

「昨日のぶん……干せなかった。父さま、また寝てしまって」

か細い声。後ろに立つ男が舌打ちした。

「刈ったら、すぐ干せって言ったろうが。濡らした米は腐る。

 うちの穂にまでカビが移ったらどうすんだ!」

男の顔は怒りに染まっていたが、その奥にあったのは恐れだった。

米が腐るということは、冬を越せなくなるということだ。

カジワラは、籠を受け取り、穂をひとつ取って指で押し潰した。

水気を含んだ実が、潰れてぬか臭い汁をにじませた。

(……ああ、これは“余剰”だ)

文明の始まり。

食べきれないぶんの保存。それが“分配”を生み、役割を作り、序列が生まれる。

彼の脳が、静かに思い出していた。

制度とは、「食べ残しの秩序」だった。


夜。倉の片隅で、米俵の隙間から粒を取り出し、口に入れてみた。

それは、現代の白米と違い、短くて黄ばんだ粒だった。

ぬかの匂いが濃く、わずかに芯が残っていた。

甘みはあった。だがそれは、**「うまみ」ではなく「生き延びる味」**だった。

口の奥が、微かに痺れた。

(……違う。身体が、何かを覚えてる)

それは、現代の梶原修造が体験した、倒れる直前の“白米の甘さ”と重なっていた。

快楽ではなく、制度の記憶。

身体が記憶している味――“支配される味”だった。


夢の中で、村の子どもたちが焚き火を囲んでいた。

小さな椀を手に、少しずつ米を分け合っている。

だが、その輪からひとつだけ離れた家があった。

父が寝込んでいる家――そこには誰も近づこうとしなかった。


老婆が呟いた。

「働かぬ者に米はやらぬ」

その声は、まるで掟のように、焚き火の周りの空気を固めた。


少女が立ち上がる。

ひと握りの米を手に取り、それをじっと見つめた。

そして、何も言わず、焚き火の中へそれを投げ入れた。


炎が、ぱちりと音を立てる。

白い湯気が立ちのぼり、その中から――まるで神の使いのように――一本の巨大な稲の穂が浮かび上がった。

穂はまっすぐに立ち、光を帯びながら、静かに燃えはじめた。


それはまるで、「制度」が火の中で姿を現し、命を代償に自らを保とうとする様に見えた。

穂の一粒一粒が焼けるたび、米の甘い匂いとともに、何かが失われていく。


(制度の炎が、身体を焼いている)


カジワラ――あるいは梶原修造の意識は、炎の奥に立つ稲の幻影を見つめながら、

胸の奥で、まるで骨が軋むような音を聞いた。

それは、制度に適応してきた身体が、静かに音を立てて壊れていく音だった。


朝。倉の帳面に新たな刻みが加えられる。

少女の家は「病人あり」として、今月の米の割当てを減らされていた。

“病”とは、ここでは“能力の欠損”ではなく、“徳の不足”として処理される。

身体が壊れても、それは制度によって正当化される。

カジワラは、初めて、その構造の外に身体を置いて、震えを感じた。


そのとき、腹の奥――臓腑の最深部が、軋んだ。

それは食あたりでも、風邪でもない。

“制度”という構造そのものに対する、身体の拒絶反応だった

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