桜散る雲の下で

海海刻鈴音

桜散る雲の下で


 残り僅かなコーヒーを飲み干そうと、空を仰いだとき。流れる雲の速さに、少し驚いた。

 

 片田舎の路線バスに乗り込んで、疲れからかちょっと寝ようとしただけなのに、気づけばここは終点。すっかり冷めた缶コーヒーを開けて口にしながら、ふらふら歩いていた。

 乗り込んだきっかけも、なんだかぽやぽやしている。嫌なことがあったのか、それとも気まぐれなのか。目覚めると同時に全ての記憶が消えていた。

 手荷物は携帯と財布、飲みさしの缶コーヒーに菓子パンが一つ。財布の中身は小銭がぱらぱらお札が一枚だけ。

 まぁこれだけあれば、帰ろうと思えばすぐに帰れはする。だけど、不思議と帰ろうとは思えなくて。

 携帯の電源は落として、腕時計も外してしまう。

 そのまま菓子パンの袋を開けながら、景色を楽しむことにした。


 季節は春。五月に入って、急に風が暖かくなってきた。視界の端にちらと映るのは、鮮やかなピンクの山桜。

 花見のお供がお酒と、それによく合うつまみじゃないことと、腰を落ち着けられないことがほんのり不満ではあるものの、存外悪くない。

 いや、財布にお金はあるのだから、コンビニでも見つければ、もしくは調べれば……なんて考えたところで、なんとも野暮なことだと振り切り、残りのコーヒーを飲み干そうと、空を仰いだとき。さぁっと柔らかな風が、桜の花びらを散らしながら吹いてきた。そして、その風に流される、雲の流れの速さにも、驚いた。

 雲がこんなにも速く、そして刹那に姿を変えるものだなんて、久しく忘れていた。

 しばらく、空を見ていなかった。頭も首も重く、引きずられる自分の足がまるで、不格好な操り人形のようだと嘆息したことをよく覚えている。

 あぁそうか、疲れていたのか。

 すとんと腑に落ちた、その言葉の重みも、風と雲がさらりと遠くへ連れ去っていく。

 どれほど長く、空を見上げていただろう。ぼーっと首を持ち上げる自分のおでこに、ぺたりと花びらが落ちてきて、正気に戻される。

 すっかり溶けた菓子パンのチョコを舐めとって、その甘さですっきりした頭の中に、帰ろうという気持ちが湧いてきたのを、これまでの自分なら渋りつつ飲み下そうとしただろうに、今はすんなり受け入れることが出来た。


 携帯を取り出して、時間と場所を確認して、近くのバス停まで四十分という文字に、辟易するものの、次のバスが来るのは一時間と三十分後とも書いていたのを確認して。

 晩御飯、何にしようかなぁと。はっきり前へと足を踏み出した。

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