命を削る勧誘


 朝の観測室は、湯気の立たない湯飲みと、まだ少し眠気を引きずった空気に包まれていた。


 ちょうどその静けさを破るように、転送室の扉が軋む音が響いた。


「ただいま戻りました」


 扉の向こうから現れたのは、セラとヴィスだった。


「ご苦労。追加で報告はあるか?」


 椅子から立ち上がりかけたユーリが、二人に静かに問いかける。


「いえ、特にありません」


 セラが簡潔に答えると、ユーリはすぐに話を切り替えた。


「では、こちらの状況を説明しよう」


 ユーリは机の端から一枚の資料を取り上げた後、淡々と要点だけを伝えた。内容は、何度も確認されてきたものと同じだった。


「そのレベルのギフトにしては、やってることが地味だな」


 ヴィスが肩をすくめて言い、ユーリが微かに笑んだ。


「だが、特異性は高い。下手に警戒されたら面倒だ。初日から仕留めるつもりで動く。セラとヴィスは私と一緒に動いてもらう。帰ってきたばかりで悪いがな」


「いえ、まったく問題ありません」


 セラが淡々と答える。


「はーい。私は大人しくしてますんで、お土産、お願いしますね?」


 ミレイユがずいと前に出て、にこにこと笑う。


「おねだりの仕方が堂々すぎて逆に清々しいね。……僕の分もお願いね?」


 ライネが苦笑しながら肩をすくめると、ユーリは小さく頷いた。


「わかった。適当に買ってこよう。それとライネ、エルマたちにこちらの状況を伝えて、向こうに何か変わったことがないか聞いておいてくれ」


 それだけを言い残し、ユーリたちは再び街へと向かった。



 日差しがやや斜めに差し込む市民区、焼き菓子の香ばしい匂いが漂う細道に、目的の店はあった。


 洒落た看板と、きれいに並べられた菓子の棚。店主は小柄な女性で、甘い香りそのもののような柔らかい口調で応じた。


「ええ、盗まれるのは、だいたい昼過ぎですね。混雑が落ち着いて、お客さんがまばらになった頃……それと、フィナンシェばかり。棚の一番右側に並べてた分です」


「他に何か、例えば──扉が勝手に開いた、などといった不審なことはありませんでしたか?」とセラが尋ねる。


「勝手にドアが開いたりとか、ですか? それは……ありませんね。閉め忘れもないと思います」


 セラが扉を軽く押して確認する。


「鍵の動きは正常。扉にも異常なし。」


 ユーリは短く唸った後、店の奥を一通り確認してから、手早く配置を決めた。


「私は客席に紛れて様子を見よう。セラは裏口を、ヴィスは窓のチェックを頼む。扉や窓を越えて逃げられないようにしておきたい」


 それを聞いて、ヴィスが少し眉をひそめた。


「……あんまり使わないでくださいよ? いないと困るんですから」


「この程度なら問題ない。おそらく一度で済む」


 ユーリは視線を棚へ戻し、最後に静かに言った。


「……頼むから、何事もなく終わってくれよ?」



 昼下がり、店内にはしばしの静寂が流れていた。


 通りのざわめきもやや遠のき、ただ菓子の甘い香りと、壁掛け時計のない空間に時間の流れだけが染み込んでいく。


 入り口のベルが控えめに鳴る。


 客が一人、店に入り、少しだけ菓子を眺めたあと、アーモンドの香ばしいクッキーを手に取って悩んでいた。店主が声をかけ、会計の準備を始めた、その時だった。


 誰もいないはずの棚の上で、小さなフィナンシェが──ふっと、かき消えた。


 その瞬間。 視界がゆがむような、微かなノイズが空間に走る。


 ユーリの眼が細められ、時間が“巻き戻る”。


 相手のギフトがどのようなものかは分からない以上、確実に“存在している時間”まで巻き戻す必要があった。それは、フィナンシェが消える直前だ。


 《時流干渉》──表向きは「ごく短い未来視」として軍に登録されているが、その実態は、過去を最大1分“巻き戻す”能力。記憶を保持したまま、再び同じ時間をやり直せる。


 ブラックギフトは、巻き戻した時間の“100万倍”に相当する老化が発生する──たとえ数秒でも、確実に肉体を削る。 その代償により、見た目は物腰やわらかな五十代だが、実年齢は三十七歳である。


「……この程度なら問題ない」


 再び、その瞬間が来る。


 すかさず、ユーリは声を張った。


「見えない客よ!」


 声が空気を震わせる。だが、その熱は柔らかく、どこか慈しむようでもあった。


「もっと、おいしいものを食べたくないか? ……うちで働いてくれるなら、それなりに甘い菓子も手に入るぞ」


 一拍置いて、穏やかに言葉を継ぐ。店主の視線が、ちらりと刺さる──『ここより美味しい菓子があるとでも?』とでも言いたげに。一方、先ほど入ってきた客は何事かと驚いている。


ユーリは懐から小さな紙包みを取り出し、カウンターの上にそっと置いた。その中には干しイチジクがいくつか入っている。


「もし、興味があるなら──ここにある干しイチジクをひとつ、消してみてくれ。悪いようにはしない」


 沈黙が訪れる。


 けれど次の瞬間、干しイチジクの一つが──まるで最初からそこになかったかのように、静かに姿を消した。


 ユーリは口元をわずかに緩め、ゆっくりと扉の方へ向かう。


「……どういったギフトかは、わからんが」


 扉の取っ手に手をかけ、静かに言った。


「とりあえず、ついてきてくれ。……扉は自分で開けられないんだろう?」


 からん、と鈴の音が鳴る。


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