あの日

わんし

あの日

 春の終わり、教室の窓際で彼と目が合った。

 陽射しがガラス越しに揺れ、桜の花びらが校庭の隅でひっそりと散っていた。佐藤悠真さとうはるまさ、ただのクラスメイトだった。少しやんちゃで、いつも教室の後ろで笑い声を響かせるような奴。


 僕、田中翔たなかしょうは、どちらかといえば静かなタイプだ。本を手に窓の外を眺めるのが日課で、クラスの中では目立たない存在だった。誰もが自分の居場所を模索する高校二年の春、僕たちの物語は静かに始まった。


 その日、放課後の教室で、ふとしたきっかけで話しかけられた。悠真が持っていたマンガを落とし、僕が拾ったのが始まりだった。「お前、こんな地味なとこで何してんだ?」と、まるで旧友のように笑う彼に、僕は少し戸惑った。


 だが、その笑顔にはどこか引き込まれる力があって、つい「別に、ただボーッとしてただけ」と答えた。


 そこから、僕たちは少しずつ言葉を交わすようになった。休み時間にくだらない話をしたり、帰り道にコンビニでアイスを分け合ったり。まるで、長年連れ添った友のようだった。


 ある夜、僕たちは校庭の片隅で秘密を共有した。誰もいない夜の校庭、星がやけに近く見えた。どうしてそこにいたのか、今でもよく覚えていない。たぶん、二人とも家に帰りたくなかったんだ。悠真がポツリと言った。


「俺さ、実は家のこと、結構めんどくさいんだ」


 彼の声はいつもより低く、どこか脆そうだった。父親との関係がうまくいっていないこと、母親が過保護すぎて息苦しいこと。普段の明るさからは想像もつかない、深い影のような話だった。僕も、親との距離感や、将来への漠然とした不安を話した。普段は言わないようなこと。いや、言えないようなこと。誰かにこんな話をしたのは、初めてだった。


「こんなこと、誰にも言ったことねえよ」と悠真が笑った。


 その笑顔には、どこか安堵が混じっていた。僕も笑った。胸の奥に溜まっていた重いものが、少し軽くなった気がした。あの夜、僕たちは初めて「ただのクラスメイト」じゃなくなった。互いの心の扉を、そっと開けた瞬間だった。


 次の日、授業中にこっそりメモを回して笑い合った。数学の時間、悠真が書いた「先生のハゲ、進化してるな」というメモに、僕は吹き出しそうになった。先生にバレて怒られても、肩を揺らして笑った。悠真が言った。


「理屈ばっか考えてたら、青春なんてすぐ終わるぜ」


 その言葉が、僕の胸に刺さった。

 確かに、僕たちは理屈じゃない時間を過ごしていた。理由もなく笑って、理由もなく夜更かしして。次の日も会えるのに、まるで明日が来ないかのように時間を惜しんだ。


 放課後、僕たちはよく校舎裏の自販機でジュースを買った。オレンジソーダを飲みながら、将来の話をした。


「俺、なんかデカいことやりてえんだよ。バンド組むとか、旅するとかさ」


 と悠真は目を輝かせた。

 僕は「俺は…まあ、普通に大学行って、安定した仕事できればいいかな」と答えた。悠真は「つまんねえ!」と笑ったけど、「でも、お前らしいな」と付け加えた。その一言が、なぜか嬉しかった。


 週末、僕たちは地元のゲームセンターに繰り出した。クレーンゲームでぬいぐるみを取ろうと無駄に熱くなり、結局1000円以上使って何も取れなかった。「金返せ!」と悠真が冗談で叫び、二人で腹を抱えて笑った。


 帰り道、夜風が気持ちよかった。悠真が「なあ、翔、俺たち、ずっとこうやってバカやってられんのかな」と呟いた。僕は「まあ、少なくとも高校卒業まではな」と軽く答えた。でも、心のどこかで、こんな日々が永遠じゃないことを感じていた。


 悠真の笑顔の裏に、時折見せる影。

 家のこと、将来のこと。彼が抱える重さを、僕はまだちゃんと理解できていなかった。あの時、もっと深く話を聞いていれば――。


 そんな後悔が、後に僕を締め付けることになるなんて、この時は知る由もなかった。春の終わり、僕たちの時間はまだ輝いていた。ただ、どこかで、時計の針が静かに動き始めていた。



〜〜〜



 夏がやってきた。

 教室の窓から蝉の声が響き、じりじりと焼けるような暑さが僕たちを包んだ。悠真との時間は、まるで加速するように濃密になっていた。


 放課後、 僕たちはよく校舎の裏の自販機でジュースを買い、コンクリートの階段に腰かけて話した。将来の夢、好きな音楽、くだらないテレビ番組。話題なんてなんでもよかった。ただ、悠真の声がそこにあるだけで、僕の日常は色づいた。彼の笑顔は、まるで夏の陽射しのように眩しく、僕の心を温めた。


 しかし、夏休み直前のある日、初めての亀裂が生まれた。文化祭の準備で、クラスの出し物について意見が対立したのだ。僕は慎重に計画を進めたいタイプだった。模擬店のメニューや装飾、予算の割り振りまで、細かくリストを作って提案した。だが、悠真は「そんなの適当でいいじゃん! 細けえこと気にしてたら楽しくねえよ」と笑い飛ばした。


 その軽さが、なぜかその日は癇に障った。いつもなら流せたのに、暑さのせいか、疲れていたのか、つい「悠真、いつもそうやって真剣に考えないよな」と口に出してしまった。教室が一瞬静まり、悠真の笑顔が凍った。「は? じゃあお前だけでやれば?」と吐き捨て、彼は教室を出て行った。


 その日から、僕たちの間に微妙な距離が生まれた。教室で目が合っても、どちらもそらす。休み時間、悠真は他の友達と騒いでいて、僕は本を開くふりをして時間を潰した。心のどこかで「こんなのすぐに元に戻る」と思っていた。喧嘩なんて初めてじゃなかった。


 でも、今回は違った。

 夏休みに入ると、悠真からの連絡が途絶えた。LINEを送っても既読がつかず、僕も意地になって追いかけなかった。暑い部屋で、扇風機の音を聞きながら、僕はあの夜の校庭を思い出した。星の下で秘密を共有した、あの時間が恋しかった。


 悠真が話した「家のめんどくさいこと」が、どんなものだったのか、ちゃんと聞いていなかった自分を責めた。父親との口論、母親の過干渉。彼は笑いながら話していたけど、その裏にどんな重さがあったのか。


 もしかしたら、彼は僕に助けを求めたかったのかもしれない。でも、僕は自分のちっぽけなプライドに縛られて、踏み込めなかった。あの時、もっと話を聞いていれば、こんな距離は生まれなかったかもしれない。


 夏休みのある夜、僕は地元の夏祭りに出かけた。浴衣を着た人々が提灯の明かりに照らされ、屋台の匂いが漂う中、偶然、悠真を見かけた。彼は友達と焼きそばを食べながら笑っていた。いつも通りの明るい悠真。


 でも、僕と目が合った瞬間、彼の笑顔が少し曇った気がした。声をかけようとしたけど、足が動かなかった。代わりに、遠くから彼の背中を見つめるだけ。花火が夜空に咲き、祭りの喧騒が僕の心を締め付けた。「ごめんね」。その一言が、どうしても言えなかった。


 祭りの後、僕は家に帰り、ベッドに横になった。窓の外では、蝉の声がまだ鳴っていた。悠真との思い出が、頭を巡る。あの校庭での夜、コンビニのアイス、ゲームセンターでのバカ騒ぎ。すべてが、遠い夢のようだった。


 どうしてこんな簡単なことで、こんなに離れてしまったんだろう。僕たちは、ただのクラスメイトに戻ってしまったのか。それとも、まだ何かを取り戻せるのか。答えは見つからないまま、夏の夜は静かに過ぎていった。


 夏休みが終わり、教室に戻っても、僕と悠真の間にはまだ壁があった。表面上は普通に話すけど、以前のような軽いノリはなくなった。悠真は他の友達と笑い、僕は窓際で本を読む。互いに、相手の心に触れるのを恐れているようだった。夏の喧騒は、僕たちの心に小さな傷を残した。


 でも、どこかで信じていた。この傷は、時間が癒してくれると。悠真と過ごした時間が、僕にとってそんなに簡単に消えるものじゃないと。



〜〜〜



 秋が訪れ、校庭の木々が赤や黄色に染まった。

 夏のすれ違いから、悠真との関係はどこかぎこちなかった。教室では普通に話すようになったけど、以前のような気楽さは戻らない。休み時間、彼は他の友達と騒いでいて、僕は窓際で本を開く。まるで、互いに相手の心に触れるのを恐れているようだった。あの夏の喧嘩が、僕たちの間に薄い膜のようなものを張っていた。


 そんなある日、担任から呼び出された。

 文化祭の実行委員として、悠真と一緒に働くことになったのだ。「仲良いんだろ? うまくやってくれよ」と先生に笑われ、僕たちは気まずく頷いた。


 準備の日々は、予想以上に忙しかった。ポスター作り、会場設営、クラスの出し物のリハーサル。最初は事務的な会話ばかりだった。メニュー表の印刷枚数や、装飾の色合いについて淡々と話し合うだけ。でも、作業を進めるうちに、僕たちは少しずつ昔の空気を取り戻していった。


 ある夜、遅くまで学校に残って看板を塗っていたとき、悠真がポツリと言った。


「あのとき、俺、言いすぎたよな」


 夏の喧嘩のことだ。

 僕は刷毛(はけ)を止めて、彼を見た。暗い教室に、蛍光灯の光が冷たく映る。僕も「いや、俺も悪かった」と呟いた。たったそれだけの言葉で、凍っていた空気が溶けた気がした。悠真は「ま、どっちもバカだったってことでいいか」と笑い、僕もつられて笑った。その笑顔は、あの校庭の夜を思い出させた。


 文化祭の準備を通じて、僕たちは再び近づいた。放課後、体育館の裏で段ボールを切りながら、悠真が突然「なあ、翔、俺たちってさ、なんか変なコンビだよな」と言った。「変って何だよ」と返すと、彼は「ほら、俺はガサツで、お前は真面目すぎるじゃん。でも、なんかハマるんだよな」とニヤリとした。僕は「ハマってるのはお前の頭だろ」と突っ込み、二人で笑った。そんな他愛もない会話が、僕の心を軽くした。


 文化祭当日、僕たちのクラスの模擬店は大盛況だった。たこ焼き屋をテーマにしたブースは、朝から長蛇の列。悠真は客引きで大声を張り上げ、「うちのたこ焼き、宇宙一うめえぞ!」と叫んでいた。僕は裏方で生地を混ぜたり、焼き器を管理したり。汗だくになりながら、ふとした瞬間に目が合った。悠真がウインクして、僕も笑った。あの夜の校庭以来の、心からの笑顔だった。忙しさの中で、僕たちは確かに「僕たち」だった。


 閉会式後、片付けを終えた校庭で、悠真が言った。


「お前とこうやってると、なんか落ち着くんだよな」


 その言葉が、僕の胸を温かくした。秋の夕暮れ、校庭に長く伸びる影。僕たちは並んでベンチに座り、冷たい缶ジュースを飲んだ。「文化祭、楽しかったな」と僕が言うと、悠真は「だろ? やっぱ、適当が一番だ」と笑った。だが、その笑顔に、どこか寂しさが混じっている気がした。


 その夜、悠真から衝撃的な話を聞いた。

 父親の仕事の都合で、来年の春、転校するかもしれないというのだ。「まだ確定じゃないけどさ」と彼は笑ったけど、目が少し潤んでいた。僕は何も言えなかった。


 ただ、呆然と彼の顔を見つめた。「明日もまた話せる」と信じていた自分が、急に脆く感じられた。悠真は「まあ、どこ行っても俺は俺だからさ。心配すんなよ」と肩を叩いた。でも、その軽さは、どこか無理をしているように見えた。


 帰り道、秋の風が冷たく頬を撫でた。

 悠真の背中が、遠く感じられた。


 あの夏、言えなかった「ごめんね」が、今また喉に詰まった。でも、今度は違う。僕は心に決めた。この時間を、もっと大切にしよう。悠真と過ごせる日々が、いつか終わるとしても。文化祭の喧騒、笑い合った瞬間、すべてが僕の宝物だった。転校の話が現実になるまで、僕は彼との時間を一秒でも惜しむつもりだった。


 家に帰り、机に向かって文化祭の片付けリストを整理しながら、僕は思った。悠真がいてくれたから、僕は変われた。理屈じゃない時間を、初めて信じられた。あの喧嘩を乗り越えたから、僕たちはもっと強くなった。


 秋の風は冷たかったけど、僕の心は温かかった。悠真との再会は、僕に新しい勇気をくれた。これからの日々、どんな試練が待っていても、僕は逃げない。悠真と過ごしたこの秋を、ずっと忘れない。



〜〜〜



 冬がやってきた。

 教室の窓は曇り、吐く息が白く舞った。


 校庭の木々は葉を落とし、裸の枝が冷たい風に揺れていた。悠真の転校の話は、結局確定した。彼は春の卒業式を待たず、2月に遠くの街へ引っ越すという。クラスの皆もその事実を知り、どこかよそよそしくなった。まるで、悠真がもう「ここ」にいないかのように振る舞う者もいた。でも、僕は違った。残された時間を、無駄にしたくなかった。悠真との日々を、できる限り濃く、深く刻みたかった。


 放課後、僕たちはよく校舎の屋上で過ごした。冷たい風に震えながら、コンビニで買ったホットコーヒーを握り、くだらない話をした。アニメの新シーズン、最近ハマってるゲーム、来週のテストの愚痴。悠真は相変わらず明るく振る舞ったけど、時折、遠くを見る目が寂しそうだった。「新しいとこ、どんな感じかな。友達、できるかな」と笑う彼に、僕は「どこ行っても、お前なら絶対大丈夫だよ」と言った。心からそう思った。でも、その言葉の裏で、胸が締め付けられた。悠真がいなくなる未来を、想像したくなかった。


 ある雪の降る日、僕たちは夜の校庭で雪合戦をした。誰もいない校庭に、雪が静かに積もっていた。悠真が「くらえ!」と雪玉を投げ、僕が「舐めんな!」と投げ返す。


 子供のようにはしゃぎ、雪をかぶって笑い合った。コートのフードに雪が積もり、冷たさが頬を刺したけど、心は温かかった。雪合戦の後、僕たちは地面に寝転がり、星空を見上げた。雪が顔に落ちて、ひんやりとした感触が心地よかった。悠真がポツリと言った。


「翔、俺、お前のこと、ほんと大事に思うよ」


 その言葉に、僕は初めて涙がこぼれそうになった。「俺もだ」とだけ答えたけど、言えなかった言葉がたくさんあった。君がいなくなるなんて、受け入れたくなかった。


 その夜、家に帰ってからも、悠真の言葉が頭から離れなかった。机の上に広げたノートには、テスト勉強のメモが並んでいたけど、ペンは動かなかった。代わりに、僕はあの校庭の夜、夏の祭り、秋の文化祭を思い出した。


 悠真と過ごした時間が、まるで映画のシーンのように胸に蘇った。どうして、こんな大事な人が、こんなに早く去ってしまうんだろう。理不尽さに、拳を握った。でも、怒っても何も変わらない。僕にできるのは、残りの時間を全力で生きることだけだった。


 2月、悠真の最後の日が来た。

 教室で簡単な送別会が開かれた。クラスの皆が寄せ書きを手渡し、女子の一部は涙ぐんでいた。悠真は笑顔で「また会おうぜ!」と言ったけど、目は赤かった。送別会の後、僕たちは校門まで一緒に歩いた。


 雪がちらつく中、校庭を振り返ると、僕たちの足跡が薄く残っていた。別れの瞬間、僕はやっと言えた。


「ごめんね。夏のとき、ちゃんと話せなくて」


 悠真は驚いた顔をして、すぐに笑った。


「バーカ、俺もだよ」


「……これで終わりか」


 静かに呟いた彼の声は、まるで風に紛れるようにかすれていた。


「終わりじゃないさ。ただ、一区切りなだけだ」


 無理に笑おうとした唇が、ほんの少し震えているのを、見逃すことはできなかった。


「……じゃあな、親友」


 ゆっくりと、拳を差し出す。

 そこには怒りも、涙も、約束もない。ただ、一つの思いだけが、静かにこもっていた。相手も黙ったまま拳を差し出し、二つの手が、音もなく触れ合った。


 柔らかく、確かに。

 その一瞬、言葉よりも深く、ふたりは分かり合っていた。もう二度と戻れない時間の中で、それでも確かに交差した、友情の温度。風が吹いた。

そして、それぞれの背中は、もう振り返ることはなかった。


 そして、彼は軽く僕の肩を叩き、「絶対また会おうな」と言い残して歩き出した。


 雪が静かに降る中、悠真の背中が遠ざかった。振り返らない彼を、僕はただ見つめた。


 あの夜の校庭、夏の祭り、秋の文化祭、冬の雪合戦。すべての記憶が、胸の中で輝いた。悠真が教えてくれたこと――理屈じゃない時間を信じること、想いを伝える勇気、傷ついた心を癒す方法――は、僕の中で生き続けていた。


 君がいない明日が来る。でも、君と過ごした時間は、僕の心に永遠に刻まれている。


 家に帰り、部屋の窓から雪を見ながら、僕は思った。悠真との別れは、終わりじゃない。新しい始まりだ。彼がいたから、僕は強くなれた。雪が降り積もるように、僕の心には悠真との思い出が積もっていく。


 これからの人生で、どんな試練があっても、僕は逃げない。悠真がくれた光を、僕は決して手放さない。冬の光は冷たかったけど、僕の心は温かかった。悠真との時間は、僕の人生の宝物だ。



〜〜〜



 春が戻ってきた。

 桜が満開の校庭は、去年と同じように穏やかだった。でも、悠真のいない教室は、どこか色褪せて見えた。


 窓際の席に座り、かつて彼と笑い合った時間を思い出した。あの夜の校庭、夏の喧嘩、秋の再会、冬の別れ。すべての瞬間が、僕の心に深く刻まれていた。悠真がいなくなってから、時間がゆっくり流れるようになった気がした。でも、そのゆっくりさが、僕に考える時間を与えてくれた。


 卒業式の日、体育館はざわめきと笑顔で満ちていた。クラスメイトたちは未来への期待と別れの寂しさを胸に、制服のボタンを交換したり、記念写真を撮ったりしていた。僕は静かに席に座り、悠真との思い出を振り返った。


 あの夜、星の下で秘密を共有したこと。夏祭りで言葉を飲み込んだこと。文化祭で笑い合ったこと。雪の中で交わした最後の言葉。すべてが、僕を形作る大切なピースだった。


 式の最後、担任が一枚の紙を配った。

 そこには、こんな問いが書かれていた。「君のいない明日からの日々を、僕は/私はきっと(   )」。

・制限時間は あなたのこれからの人生

・解答用紙は あなたのこれからの人生

・答え合わせの 時に私はもういない

・だから 採点基準は あなたのこれからの人生


 僕はペンを握り、空欄を見つめた。悠真がいたから、僕は変われた。理屈じゃない青春を、初めて信じられた。夏の喧嘩で傷つけ合い、秋にそれを乗り越え、冬に「ごめんね」を言えた。あの瞬間、僕は自分を少し許せた気がした。


 悠真は、僕に勇気をくれた。想いを伝える方法、傷ついた心を支える強さ、別れを受け入れる覚悟。それらは、学校の教科書には載っていない、人生の答えだった。


 空欄に、僕は書いた。


「君のいない明日からの日々を、僕はきっと、君との思い出を胸に、前を向いて生きる」


 シンプルな言葉だったけど、それが僕の真実だった。悠真との時間は、僕の心に灯った光だ。どんなに暗い夜が来ても、その光は消えない。卒業式の喧騒の中、僕は静かに微笑んだ。悠真はもう隣にいない。でも、彼が残してくれたものは、僕の中で生き続けている。


 卒業後、僕は新しい街で大学生活を始めた。

 新しい環境、新しい友達、新しい挑戦。忙しい日々の中で、ふとした瞬間に悠真を思い出す。コンビニでオレンジソーダを見ると、彼と自販機で笑い合った夏が蘇る。雪が降ると、校庭での雪合戦が胸に浮かぶ。


 ある日、突然、悠真からLINEが届いた。

「よお、元気か? こっち、めっちゃ楽しいぞ!」と、相変わらずの軽い調子。写真には、笑顔の悠真と新しい友達が写っていた。海辺でピースサインをする彼は、まるで変わっていないようだった。僕は笑って返信した。「バーカ、楽しそうじゃん。いつか会おうな」。その言葉に、嘘はなかった。


 返信を送信した後、僕はスマホを置き、窓の外を見た。桜が散り始めていた。新しい街の空は、どこか懐かしい色をしていた。


 悠真との思い出は、僕の心の奥で静かに輝いている。あの校庭の夜、星の下で交わした秘密。あの時間が、僕の人生の採点基準になった。悠真は教えてくれた。人生は、正解のない問いだらけだ。でも、その答えを探す旅こそが、生きる意味なんだ。


 大学での生活は、思った以上に忙しかった。

 講義、サークル、アルバイト。新しい友達との時間は楽しく、未来への希望も感じられた。でも、どんなに忙しくても、悠真との記憶は色褪せなかった。


 ある夜、疲れて帰宅した部屋で、ふと寄せ書きを開いた。悠真が書いた「また会おうぜ!」という文字が、力強く目に飛び込んできた。僕は笑い、胸が温かくなった。いつか、どこかで、必ず会える。そんな確信があった。


 桜が散る頃、僕は新しい一歩を踏み出していた。悠真との物語は、終わったわけじゃない。それは、僕の人生の一部として、ずっと続いていく。空欄の答えは、これからも書き続けられる。悠真がくれた光を胸に、僕は前を向く。新しい春が、僕を待っている。どんな未来が来ても、僕は逃げない。悠真と過ごしたあの時間を、永遠に大切にしながら。

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あの日 わんし @wansi

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