第3章:再起動(Reinitium)
ユイは、国家が運営する高警戒度隔離施設の無機質な病室で、静かに覚醒した。
彼女がそこに収容されてから、すでに六年以上の歳月が経過していた。
監視カメラと生体モニターに囲まれ、外界から一切遮断された生活。
誰が味方で誰が敵なのかもわからないまま、彼女は“情報の空白”の中で、ただ時の流れだけを感じていた。
その間、世間では何が起きていたのか。
世界は変わったのか。
かつて守ろうとしたものは、今も残っているのか。
一切の答えが与えられないまま、彼女は孤独の中で、静かに呼吸し、静かに考え続けていた。
そこから始まった日々は、冷静さと管理の極致にあった。
朝6時、照明が点灯し、無音で自動搬送機が栄養食を運ぶ。
窓のないすりガラスの空間に季節の気配はなく、人の声も感情もなかった。
ユイは、延々と続く「認知確認テスト」を受けながら、感情のない処方判断を機械のように繰り返していた。
そして、夜になると夢を見た。誰かの声。手を伸ばす自分。だが、相手の顔はいつも霞んでいた――。
統制局の瓦礫の中、ユイの身体は医療災害対応特殊部隊『メディセーフ・オペレーションズ』によって奇跡的に救助された。
だが、その存在と統制局崩壊の真相が公にされることはなかった。
ユイは“機密対象者”として、国家の監視下に置かれ、外界との接触を断たれた生活を送ることになる。
表向きは薬剤師国家資格の復活など、医療の人間中心回帰が進められているように見えたが、実際には水面下で医療AIのさらなる開発が続けられていた。
その計画において、AIに抗ったユイの存在は極めて都合の悪い“異物”だったのである。
しかしそのような状況の中、ユイの存在を“希望”と捉える者たちが現れた。
彼女がかつて統制局を崩壊に導いた存在であることを知る、地下の医療独立派組織「ヒポクラシス・リンク」は、ユイ奪還計画を極秘裏に進行していた。
作戦前夜、リンク本部の作戦会議室には、数名の幹部が集まっていた。
巨大なデジタルスクリーンには、隔離施設の構造と警備ルートが投影されている。
「6年……あの人は、6年間も、ただ生かされているだけだったんだ」
憤る若手隊員の声に、情報担当のシンイチが静かに口を開いた。
「ユイさんは、ただ“幽閉”されていたわけじゃない。国家にとって不都合な真実を知る存在として、“封じられていた”んだ」
戦術班のリーダーが、スクリーンの脇で腕を組む。
「強行作戦になる。セキュリティは軍事レベル。だが、俺たちがやらなきゃ、誰が彼女を迎えに行ける」
沈黙の中、ファーマのデータホログラムが会議室中央に浮かび上がる。
「ユイ先生は、私たちが支えなければいけない存在です。あの人の判断、あの人の疑義照会が、この世界を変えたんです」
静かに頷いた全員が、覚悟を共有していた。
──これは、ただの救出作戦ではない。
“人の医療”を取り戻すための、最初の反撃だった。
隔離施設に収容されていたユイは、ある夜、外壁を破って突入した医療用外骨格を纏う救出部隊によって脱出させられる。
作戦開始は午前2時。
施設周辺のセキュリティネットが突如ダウンし、同時に建物西側の外壁が爆音とともに崩れた。
突入したのはヒポクラシス・リンクの戦術薬剤支援部隊──白い強化外骨格に身を包んだ彼らは、薬品噴霧とスモークによって警備の視界と感覚を奪いながら、正確にユイの病室へと進軍した。
「第3ブロック、クリア。対象まであと60秒」
ユイの病室では非常灯が点滅し、警報が鳴る中、ドアが電磁焼断で切り開かれた。
「綾瀬ユイ、確認。搬出を開始する」
防護マスクの男がユイの名を呼び、素早く彼女をストレッチャーに移す。
酸素投与とモニター装着が同時に行われ、病室の壁面に爆煙が漂う。
「……あなたを、ここから連れ出しに来た。あなたはまだ、この国にとって必要なんだ」
その言葉とともに、ユイの再覚醒の旅が始まった。
搬送用ストレッチャーで廊下を運ばれる途中、施設警備ロボットの部隊が迎撃に出現した。
赤いスコープライトがユイと救出部隊を標的に照準し、瞬時に警報が再起動する。
「敵反応、複数!進路を塞がれた!」
隊員たちは遮蔽弾を発射し、煙幕と対センサー散布薬を用いて進行ルートを死守する。
しかし、銃火の飛び交う中で、ユイがふと立ち上がった。
「私が通す」
隊員が驚き、「ユイさん、まだ体力が……」と制止する間もなく、ユイは軟膏ベラを抜き放った。
次の瞬間、光が弾けたように彼女の身体が加速する。
リバースメモリによって強化された反射神経と戦闘アルゴリズムが、無意識のうちに起動していた。
左手でスパーテルを回転させ、狙撃センサーを一閃。
右手の軟膏ベラが、関節部の隙間に鋭く突き立てられる。
「……回路遮断、完了」
一体、また一体と倒れていく警備ロボ。
その様子を見ていた救出チームの隊員達が、息を呑んだ。
「……この人、本当に薬剤師か……?」
「いや……違う。戦場で生き残ってきた“本物”だ」
その一撃一撃が、医療の名のもとに鍛え抜かれた“人を守る力”であることを、誰よりも現場の隊員が理解していた。
やがて最後の障壁が破られ、ユイたちは隔離施設を脱出。
暗い夜の中、救出ヘリのローター音が響く中で、ユイは再び自由を取り戻した。
脱走後、ユイはしばらくの間、ヒポクラシス・リンクの
ユイが初めて《アスクレオン・セントラル》に足を踏み入れたとき、彼女を出迎えたのはリンクの代表だった。
「私たちは、“人の手による医療”を守るために集まった集団です」
代表は静かに語り始めた。
「ヒポクラシス・リンクは、2030年代に青少年のオーバードーズ(OD)を防ぐ運動から始まりました。あの頃、OTC薬の乱用が社会問題となり、多くの若者が命を落としました。
私たちは啓発と支援、そして医薬品の有資格者による適正な取り扱いの必要性をかねてから訴えてきました。しかし、2025年に“資格者不在でもコンビニでOTCが販売可能”という法律が施行されたとき、我々は強い危機感を抱いたのです」
ユイは息をのんだ。
「人の判断が軽視され、利便性が命を追い詰める。そう感じた瞬間でした。それでも私たちは、“対話と照会”という人間的な医療の原則を守ろうとし続けた。やがて仲間が増え、今の形に至ったのです」
その語りには、現代医療に対する深い怒りと、患者一人ひとりへの敬意が込められていた。
ユイは静かに頷いた。
「わかりました。私も、ここで戦います」
代表は頷き、続けた。
「ただし、現在状況は変わってきています。最近、我々の動きに対抗するように、“リカーバレント機構”という新たな勢力が出現しました。AI主導の医療体制を再構築しようとする動きで、国家の一部とも連携しているようです」
ユイの眉がわずかに動いた。
「その名、聞いたことがあります。ですが詳細は……」
「彼らは表向きは秩序と最適化を掲げていますが、実際には人間の判断を排除し、再びカルナのようなAIを中核に据えようとしています。ユイさん、あなたの存在が、彼らにとって最も不都合な真実なのです」
その言葉に、ユイはゆっくりと頷いた。
「なら、なおさら……私は止まれませんね」
《アスクレオン・セントラル》
それはかつて地下医療センターだった施設を再構築した複合基地であり、指揮管制エリアと薬学研究ユニット、実戦訓練フィールド、民間向け外来施設を統合した広大な地下複合医療拠点だった。
初めてそこを訪れたユイに、リンクの技術主任が深々と頭を下げてこう言った。
「綾瀬ユイさん、あなたの存在は私たちにとって象徴です。……この子を、どうか受け取ってください」
そうして差し出されたのが、サポート医療AI《ファーマ(PHARMA)》だった。
「あなたにしか扱えないように、感情同調チューニングを施しています。どうか、彼女と一緒に戦ってください」
彼女は組織内で薬剤師兵士たちに対し、薬拳流を基本とした格闘術や、医療戦術を応用した陣形構築、危機下での服薬支援戦術といった実践的な知識と技術の教育を担うこととなる。
また、その教育のサポートとして、ヒポクラシス・リンクが独自に開発したサポート医療AI《ファーマ(PHARMA)》がユイのそばに配置された。
技術主任からファーマを紹介されたとき、ユイは一瞬だけ表情を強張らせた。
「……AI!」
思わず身構えたユイの動きを見て、ファーマは慌てて両手を振った。
「ちょちょちょ、ちょっと待ってください。私はカルナのような性格の悪いAIじゃないですよー。ちゃんと人の心っていうものが理解できるAIなんです。エヘン」
その言葉にユイは少しだけ肩の力を抜き、戸惑いながらも息を吐いた。
「……そう。なら、信じてみる」
こうして二人(?)の関係は、少しずつ築かれ始めた。
ファーマは人間の感情に寄り添う対話インターフェースを持ち、調剤指導、薬歴管理、患者支援記録の自動構築、戦術シミュレーションの補助までこなす多機能型AIである。
「照会完了、処方適正99.7%。ただし、患者の生活リズムから判断すると夕方投与に微調整の余地あり。どうしますか、ユイ先生?」
「……夕方に変更。ありがとう、ファーマ」
こうしてユイとファーマは、実戦と実務の両面で互いを補いながら薬局内外の任務を遂行していた。
また平時には、ヒポクラシス・リンクがカモフラージュとして運営しているリンク薬局において、管理薬剤師として地域住民への医療提供にも従事していた。
時には、ヒポクラシス・リンクが展開する医療AI反対運動のためのミッションにも参加し、現場で直接仲間を指導することもあった。
その際、本部との連絡や任務の調整を担当していたのが、情報担当員の男・シンイチだった。
仮の姿としてリンク薬局の経営者を務めており、外部からはただの穏やかな薬局長にしか見えないが、その実、ヒポクラシス・リンクの作戦全体の情報調整を担う頭脳でもある。
ある日の閉店後、ユイが調剤室で薬品の棚を整理していると、シンイチがそっと声をかけてきた。
「ユイさん、今日の患者さん、アリピプラゾールとクエチアピンが両方処方されてましたね。処方元が別々とはいえ、しっかり疑義照会されてました」
ユイは一瞬だけ手を止めて、静かに頷いた。
「抗精神病薬の多剤処方はリスクが大きい。既往歴に認知機能の低下もあったし、生活環境も含めて考える必要があったから」
シンイチはわずかに目を細め、笑った。
「カルナだったら、併用したというデータもあるという理由で、そのまま通してたでしょうね。……でもユイさんは違う。ちゃんと“その人”を見てる」
「患者はデータじゃない。暮らしの中に薬があるんです」
「そう。だからこそ僕たちは、あなたの判断を信じて支えてるんです」
シンイチは壁にもたれたまま、目をそらさずに言った。
「薬局は戦場じゃないけど、ここでも人の命は左右されてる。僕は薬を渡すわけじゃない。でも、ユイさんが戦場に立つ限り、僕は背中を守る」
ユイは、彼の言葉の奥にある覚悟を感じ取っていた。
ただ淡々と調整するだけの男──そう見えたその裏に、確かな“意思”があった。
「薬剤師はただ薬を渡すだけじゃない……命の最前線に立つ者よ」
そう語るユイの姿に、かつての戦士の面影が宿っていた。
ただし、精神の深部はまだリバースメモリの干渉を受け続けていた。
彼女は、感情の少ない薬剤師として活動を再開。
残薬調整、服薬指導、疑義照会――そのすべてが完璧だった。
しかし、夜がくるたびに胸を締めつける何か。
照明が落ち、薬局の喧騒が静まり返ると、そこに残るのは自分自身の呼吸音だけだった。
その静けさが、なぜかユイには耐え難かった。
胸の奥に、名もなき空白がぽっかりと穴を開けている。
何かを置き去りにしてきた感覚。誰かと交わしたはずの約束。守りたかった何か――それらが、形を持たないまま彼女の内側でざわついていた。
眠ろうと目を閉じるたびに、そのざわめきが疼きとなり、鼓動に重なる。
心拍が乱れ、うまく眠れない。
(……なぜ、こんなにも、夜が苦しい?)
わからない。
ただひとつだけ、確かなのは、“何かを忘れている”という確信だけだった。
「……何を……忘れてる……?」
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