第32話

島根県に到着した日は各々自由に過ごして、土曜日の早朝に本社のメンバーと合流して出雲大社へ。


「この凛とした空気を感じて欲しくて。人もまばらだから、ゆっくりできるよ」

 桜井社長の言う通り、荘厳な雰囲気で身が引き締まる。でも、どことなく温かな風が体を包んでいるような気持ちよさを感じていた。


 桜井社長に連れられて、参拝ルートをゆっくりと進む。仲間と一緒に歩いていても、一人でいるかのように感じられる。勢溜の大鳥居をくぐり、四の鳥居の手水舎で身を清め、先へ先へ足を進める。まるで手招きされているような感覚。一つひとつ、時間をかけて歩き、ついに神楽殿へ。


 直樹が、大しめ縄を見上げて立っていた。


 周りには誰もいない。私は、導かれるように直樹の隣に立つ。


 「ただいま」

ふと出た言葉だった。また、時間の軸がなくなる。私は、何故か初めて来たこの場所に戻ってきたんだと思った。


 「おかえり」

私を一瞬見て、当たり前のように直樹が答える。


 温かい風が私たちの間を通り抜けていった。どのくらい二人で立っていたんだろう?だいぶ長い時間、神楽殿の前にいたような気もするけれど、多分ほんの数分。


 「今さ、芹香を目の前に見せてくださいってお願いしたところだったんだ。できるわけないだろうっていう無理難題を神様にね笑。そうしたら、本当に芹香が目の前にいるんだから。神様って凄いな笑」


 「神様を試したの?全くもう笑」


 「だってさ、ここまでどれだけ難しい試験ばっかさせられてたか。そう思わない?」


 「そうだね笑。でも、私、今の私が好き」

 「俺も。今の俺が好き」


 五年ぶりに、やっとほっとして心から笑えた。


 私たちは、もうあんな風に離れることはないだろう。


 携帯が鳴る。ユキさんからのラインだった。「私たちは、お腹が空いたので仲見世通りに行ってるね」というメッセージと、写真が一枚。


 私と直樹を撮ったその写真には、私たちを囲むように虹がかかっていた。神秘的な力を感じるその写真は、まるで私たちを祝福してくれているかのようだった。


 私たちはベンチに腰を下ろし、空白の時間を埋めていく。


 「芹香に会ったあの日、俺はあの家と会社から、無性に逃げ出したくなって、たまたま美術館に立ち寄ったんだ。カタチだけの社長を言い渡されてね。表向きは、任せるよと言いながらも責任だけを押し付けて、裏でやりたい放題したいって魂胆が丸見えだった。親子揃って使い込みが激しいから、借金のために社員があくせく働いているかのように思えたんだ。もともと祥子に男が何人もいるのも知っていた。でも、別にそれで良かったし、俺も自由にやってたんだよ。祥子は、家事も育児も、インスタ映えすることだけ。朝昼夜のご飯も、作るってことはしていなかったな。ケータリングや惣菜ばかり。でも何を食べても別に腹に入れば同じだし、そんなことすらもどうでも良かったんだよね。俺が子供のためにご飯作ったり、世話を焼きたかったから、そこに居ることを選んでいたんだ」


 なんか、愚痴っぽいなと直樹は恥ずかしそうにしている。いいよ聞かせてと、私は直樹の手を握った。


 「何も感じなければ、子供も自由もお金も全部ある。考えず周りに同調すれば良いだけ。でもさ、芹香に出会ってからそうはいかなくなって……。芹香は痛いところを突いてくるし、自分の人生そのものも全部否定されてる気がして、本当にうんざりしてた」


 私が感情をぶつけて苦しんでいる裏側で、直樹は感情を殺して生きていたんだ。


 「あの日、芹香に会って素の自分が戻ってくると同時に、ものすごく怖かった。だから、別れようと言ったのは、本気で芹香をやめたかったからなんだ。けど、芹香に背を向けて、またあの場所に戻るってなった時、マジで無理って…。スイッチが入ったんだよね。で、離婚して子供と実家に帰ってきたってわけ」


 離婚したことも知らなかった。本気で私と別れる決断をしてたんだ…。直樹の中では、もう私のことはどうでも良かったんだ。と、前の私なら思っていただろう。そう思った自分を鼻で笑う。


 だって、本当にそうだったら神様にお願いなんてしていない。


 相変わらず、直樹は私の心を読んでいるかのように続ける。


 「芹香の連絡先はさ、離婚の時になんかあって芹香に迷惑かけちゃヤバいと思って、ブロックして写真も連絡先も全部削除して、番号も変えたんだよ。だから、神様にお願いするしかなかったんだよね笑」


 凄いな…。私は、弱っちくてグズグスでどうしてもそれができなかった。全部無くす勇気が付かず、逆に、持ち続けることを許したんだ。


 私のことも、適応障害になったことや心の葛藤も含めて全部話した。


 離れていても、心の動きがリンクしてる…。離れてすぐは、考えることにも疲れて、死んだようになっていたこと。一度再会してからは、一気に目の前が広がって自分のための人生を歩み始めたこと。


 別々の道で、私たちは繋がっていたんだ。ゴールがわからず彷徨うしかなかったけれど、到達した時にわかる。それは、カチカチとピースがハマってジグソーパズルが完成していく感じに似ている。


 「でも、芹香ごめんね。一緒になる約束はまだ果たせそうにない」


 「約束を覚えていてくれたんだ。それだけで充分嬉しいよ」


 「芹香、前よりうんと綺麗だ笑」


 急に直樹は、子どものように無邪気な顔をした。直樹も、前より、うんとたくましく凛とした気がする。


 「離婚する時、息子の羽哉(ハヤ)のことで裁判も覚悟してた。でも、ものすごくあっけなく手放したんだよね。『子供を連れて出ていけ』ってさ。離婚まで、一年もかかってないと思うよ。俺にとっては、願ってもないことだったし、良かったんだけど。おかしいなと思ってたら、祥子のインスタに、赤ちゃんができましたって投稿がアップされててさ。インスタでは、離婚したことは伏せられてて、新しい“なおくん”が一緒に映ってたよ。子供にとっては、母親に捨てられたって感じてしまうだろう?実際、羽哉に連絡も一切よこしてないみたいだし。当時は中学生だったし、俺の前では泣くとかはなかったけど。環境も収入も……。羽哉にも世界があったろうに。親の都合でガラッと変えさせてしまった。でも、羽哉は俺のことは責めずに笑っていてくれてる。でもさ、そんな辛いことにさせてしまったのは俺のせい。だから、羽哉のことだけを一番に考えたい」


 インスタで、幸せを切り取っただけの情報の裏を知って、そういう情報を鵜呑みにして喜怒哀楽をしていたと思うと怖さを覚える。溢れかえる情報を取捨選択しているつもりで、踊らされてる。


 「うん。もちろんそうしてあげて。私はもう大丈夫だから。直樹をたくさん傷つけてごめんね」


 直樹に会えたら、一番に言いたい言葉だった。やっと伝えることができた。


 「俺の方こそ芹香の人生をガラッと変えてしまってごめん。辛い立場ばかりを押し付けておきながら、自分のせいじゃないと逃げて傷つけあってしまったね」


 今の自分が好きだと言える人生を歩み始まった直樹は、美しく優しく、そして頼もしい男性に変わっていた。

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