第3話 姫宮と清武

 あの日、モノクロ写真に触れて以来、清武 蓮の世界は完全に調律を狂わせていた。

 視界の端で蠢く黒い影は日常茶飯事となり、頭痛はまるで偏屈な同居人のように居座り続け、街を歩けば、すれ違う人々の下世話な思考や、些細な感情の波が、望んでもいないのに流れ込んでくる。

 それは、まるで壊れたアンテナが拾ってしまうノイズのように、蓮の精神をじわじわと削り取っていった。

(……もう、限界だ……)

 ゴールデンウィークも中盤。

 蓮は自室のベッドに突っ伏し、枕に顔を埋めていた。

 外は五月晴れ。

 友人たちは相変わらず楽しげな連休を満喫しているようだが、蓮にはカーテンを開ける気力すらない。

 このままでは、本当に頭がおかしくなってしまう。

 意を決し、重い身体を引きずるようにして家を出た。向かう先は一つしかない。

 忌々しいが、今はあの幼馴染に頼る以外に道はないように思えた。

 ゴールデンウィークの喧騒が嘘のように、神社の境内は凛とした静寂に包まれていた。高く聳える御神木の楠が落とす濃い影が、玉砂利の敷かれた参道に涼しげな模様を描いている。耳を澄ませば、どこからか聞こえてくる小鳥のさえずりと、風が笹の葉を揺らす微かな音だけが、その静寂を優しく破っていた。

 連休中だというのに、参拝客の姿はまばらで、むしろ普段よりも一層、神聖で清浄な空気が満ちているように感じられる。

 それは、この場所に漂い始めた異質な「何か」に対する、神域の自然な抵抗の現れなのかもしれない。

 本殿へと続く石段の下で、蓮は大きく息を吸い込んだ。これから話す内容は、あまりにも現実離れしている。馬鹿にされるかもしれない。

 だが、今の蓮には、他に頼れる相手がいなかった。

「……すみません」

 社務所らしき建物の呼び鈴を押すと、しばらくして境内の方から草履を擦る足音を聞いた。

 現れたのは、白い小袖に緋色の袴という、本格的な巫女装束に身を包んだ灯里だった。

 肩までの黒髪は、普段よりも丁寧に結い上げられているのか、いつもより少し大人びて見える。彼女は手に竹箒を持っており、どうやら境内の掃除をしていたらしい。

 灯里は、憔悴しきった様子の蓮を一瞥するなり、その大きな瞳をわずかに細めた。その表情には、いつもの勝ち気な響きはなく、むしろ、全てを予期していたかのような、静かな諦観と、ほんの少しの呆れが混じっているように見えた。

 まるで、「ああ、やっぱりあんただったのね。いつになったら来るかと思っていたわ」とでも言いたげな、そんな複雑な色が浮かんでいる。

「……何の用?」

 声のトーンは平坦だが、その言葉の端々には、蓮の異変を確信しているような響きがあった。

「……いや、その……ちょっと、話があって」

 蓮は、言い淀みながら視線を落とす。自分の情けない姿を、この幼馴染に見られるのは、やはり居心地が悪い。

 灯里は、そんな蓮の様子を値踏みするように見つめると、やがて、ふう、と一つ小さなため息をついた。

「……まあ、立ち話もなんだし、上がりなさい。どうせ、面倒な話なんでしょう?」

 その言葉には、突き放すような冷たさはなく、むしろ、これから始まるであろう厄介事を、半ば覚悟しているかのような響きがあった。

 蓮は、灯里のその意外な反応に少し戸惑いながらも、促されるまま、重い足取りで社務所の薄暗い上がり框へと足を踏み入れたのだった。

 蓮は、最近見る影について話した。

「なあ。あれって何なんだ」

「……やっぱりね。ゆっくり説明するわ」

 灯里は、ゆっくりと語り始めた。

「最近、蓮が見えてる影だけど。《歪》って呼ぶの」

「ひずみ?」

 蓮は訊いた。

現世うつしよとは異なることわりを持つ異界――常世とこよとも幽世かくりよとも呼ばれる場所から現れ、この世の秩序を歪め、人の生気やえにしを喰らう存在の総称よ。現世の力を取り込むことで、現世の理に適応しようとする試み、あるいは、現世の秩序を破壊し、自らの混沌とした性質で世界を侵食しようとするの」

 灯里は淀みなく語る。その口調はまるで、歴史の授業でもしているかのようだ。

「そして、私の家……姫宮家は、代々その《歪》を祓い、封じることを使命としてきた一族なのよ」

 そこまで言って、灯里は少しだけ胸を張った。どことなく誇らしげな、いわゆるドヤ顔というやつに見えなくもない。

 蓮は、ぽかんと口を開けて聞いていたが、ようやく状況を飲み込もうと頭を回転させる。

「……は? つまり? え、何? お前の家って、そういう……ファンタジー?」

「ファンタジーなんかじゃないわ! これは現実! 厳然たる事実!」

 灯里が声を荒らげる。

「あんたが最近見てるその、おぞましい影も、街で起こってる奇妙な出来事も、全部その《歪》の仕業よ!」

「いやいやいや、待て待て待て! 話が飛びすぎだって! なんだよ《歪》って!」

 あまりに突拍子のない話に、蓮は混乱していた。

 頭痛がひどくなる。

 こいつ、GWの暇さにやられて、ついに頭がおかしくなったんじゃないかと。

「いいから聞きなさい! そもそも、あんたの家……清武の家系も、ただの一般人じゃないのよ」

「はあ!?」

「あんたのひいお爺さん……。いや、お爺さんだったかしら? 確か、清武のお爺様は、かつて姫宮家と協力して《歪》と戦ったことがあるの。つまり、あんたと私は……まあ、不本意ながら、そういう『縁』で繋がってるわけ」

「……縁って……」

 蓮は呆然と呟きつつ、以前見た、モノクロ写真を思い出した。あれは姫宮家と共に《歪》と戦ったことを示す間柄だったのだ。

「それって、まさか……腐れ縁ってやつか?」

「……まあ、否定はしないわ」

 灯里は少しバツが悪そうに視線を逸らす。

「まさか。俺のじいちゃんが、化け物と戦っていたなんて。でも、そんなこと一言も聞いたことないぞ」

「まあ。実質的に戦っていたのは、姫宮だけどね」

 灯里は腕組みをして得意になる。

「……でも、清武も戦ったんだろ?」

「正確には、視ていた。ね」

「視る? それでどうして一緒に戦ったってことになるんだ」

 蓮は疑問が解けなかった。

 すると灯里は、そのことを説明し始めた。

「《歪》は、特別な見鬼の才がないと視えないの。姫宮家は《歪》という異質な存在を《祓う》《打ち滅ぼす》ことに特化した力を発展させてきたの。そのお陰で気配は感じられる。でも《歪》の姿を見ることができなかったの。

 ちなみに、見鬼ってのは、妖などの人ならざるものを見ることができる力のことよ」

 その話しを聞いて、蓮はなんてアンバランスな力だと思った。

「視えないって何だよ。ゲームで言ったら、筋力や敏捷にボーナスポイントを全振りして、レベルアップしても、知能や知覚力を1のままにしてたってことだろ」

 蓮の例えは非常に分かりやすかった。

 それだけに、灯里の中に怒りの炎が燃え盛る。

「うるさい! だから、清武が持つ『視る力』……《歪》を探知し、見抜く力が必要不可欠だったの。協力関係、持ちつ持たれつ、ってことよ」

 長々と続く説明に、蓮の頭は完全にオーバーヒート寸前だった。

「……分かった、分かったから! 要するに! まとめろ! 三行で!」

 思わず叫ぶと、灯里はムッとした顔で蓮を睨みつけた。

「……三行ですって? あんたは小学生か。この重要な話を……まあいいわ。じゃあ、こうよ」

 灯里は人差し指から薬指までを順番に立てながら説明した。


「一、この世には《歪》っていうヤバいのがいる」

「二、私の家はそいつらを祓う専門家だけど、存在は感じられても《歪》の姿がはっきり見えない」

「三、清武家は《歪》の姿が見える力があって、その昔、姫宮家に従って戦ったの」


「……最後!」

 最後の一言に蓮はカチンときた。

「つまり見えるから戦いに駆り出された。ようするに迷惑かけられてる側なのに、そんな言い方されなきゃなんないんだよ!」

「事実でしょ! どっちにしろ、事態は動き出したの! 昔の因習に従って《歪》退治に協力してもらうわよ!」

 灯里は有無を言わさぬ強い口調で言い放つ。その瞳には、冗談や戯言ではない、確かな覚悟のようなものが宿っていた。

 蓮は、反論しようとして口を開きかけたが、言葉が出てこなかった。頭では信じられない、荒唐無稽な話だ。

「ともかく、今この街で起こっていることは《歪》の残影。その封印が弱まっている証拠よ」

 その口調には、どこか家系の使命を語る誇らしさと、蓮に対する若干の憐憫と優越感が滲んでいる。

「……つまり、あんたのそのポンコツな力も、上手く使えば《歪》の場所や弱点を特定できるってこと。まあ、今のあんたじゃ、宝の持ち腐れどころか、ただのノイズ発生器だけど」

「ポンコツ言うな!」

 蓮はかろうじて反論する。

「そもそも、信じられるか、そんな話」

「信じる信じないの問題じゃないわ。これは現実よ。あんたが視ているものが、何よりの証拠でしょう?」

 灯里は真っ直ぐに蓮の目を見据える。

 その強い視線に、蓮は言葉を失った。

 荒唐無稽だ。

 だが、自分が体験している異常な現実を、この幼馴染は明確に言い当てている。認めたくはないが、彼女の言うことを信じるしかない。……のかも知れない。

 灯里が、さらに何か説明を続けようとした、その時だった。

 ゾクリ、と空気が震えた。

 これまで感じていた微かな淀みとは違う、もっと濃密で、明確な悪意の気配。

 それは、神社の外――から強く発せられている。

「……っ!」

 蓮は息を呑んだ。

 視界がぐにゃりと歪み、黒い影がノイズのようにちらつく。

 灯里もまた、鋭い表情で立ち上がった。

「来たわね。 封印の綻びから完全に抜け出した個体がいる。行くわよ!」

 灯里の声は、普段の勝ち気な響きとは違う、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを帯びていた。彼女は社務所の奥から、白い布に包まれた長いものを手にすると、蓮の返事を待たずに裏口から駆け出した。

「お、おい、待てよ!」

 蓮は一瞬躊躇したが、ここで一人残される方がよほど恐ろしい。

 意を決し、灯里の後を追う。

 心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、冷や汗が背中を伝う。さっきまでの頭痛や倦怠感は、強烈なアドレナリンによってどこかへ吹き飛んでいた。

(続く)

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