美味い包子と苦い話。そして……

 二人で包子まんじゅうを頬張りながら、一緒に東華門街とうかもんがいを歩いた。教えてくれた少年の名は、虎円こえんといった。ちなみに、祐賢ゆうけんの名前を教えても、虎円のおじさん呼ばわりが変わることはなかった。

 

 東華門街にほとんど来たことが無いというと、虎円は立ち並ぶ店一つ一つについて色々と紹介してくれた。開封の流行を生み出している服屋だの、皇帝が認めた料理人の店だの、やたらと細かくて、思わず聞き入ってしまう紹介だった。


「おじさん、何か話したいことある?何でもいいよ、さっきの包子の感想でも、愚痴でも。俺、喋ってばっかで疲れちゃった」


 数十の店を紹介した後、虎円はそんなことを言った。


「……包子は、とても美味しかった。私の新たな好物になると思う。愚痴は……苦しんでいることだな、ずっと」


 虎円の無邪気さに促されたかのように、するりと悩みが零れ落ちた。思わず口元を押さえても、もう遅い。


「おじさん、何があったの? 俺で良ければ聞くけど」


 出会ったばかりの子供に聞かせる話では無いと思いながらも、祐賢は口をつぐむことができなかった。


「……ありがとう。実は私は、物心ついた時から今までずっと科挙に向けて励んできて……そして一度も、報われたことがない」


 自嘲の笑みを浮べる祐賢に、虎円は目を見開いて素っ頓狂な声をあげた。


「えええええええ!! おじさん、科挙を受けてるの!? すごい、俺そんな人初めて見た! 頭良いんだね!」

「いいや、そんなことは無い。私などより何倍も優秀な者は、世の中に星の数ほどいる」


 目を輝かせて賞賛してくれる虎円に、祐賢は諦めたように言った。


「もし良ければ、もう少しだけ私の愚痴に付き合ってくれないか。……私も、昔は……本当に昔は、神童と呼ばれたくちだったんだ」


 そのたぐいの子供が産まれると、親はおおいに期待をかけ、金を費やして子供を学問に励ませる。祐賢の両親もその例にもれなかった。


「……けれど、長ずるにつれだんだんと才の無いことが顕わになってきた。それでも科挙にしがみついて、恥を晒して生きている」


 祐賢が天才などではないととうにわかっている今でも、両親は苦労して働き、祐賢を養ってくれている。二人はもう年老いていて、体もきついだろうに。下を向いた祐賢に、虎円は遠慮がちに言った。


「……人生はそんなに悪いことばっかりじゃない。良いことも、ちょっとはあるよ。だから、きっと及第できるよ」


 その言葉に、祐賢の心に鮮やかに広がったのは混じり気のない怒りだった。


 何がわかる、と思った。お前に私の苦労の何がわかる、と。自らの才の無さを日ごと突きつけられる苦しさを、才の無いことをわかって勉学に励むことの辛さを、それでも諦めきれずに夢にしがみつくみじめさを、ちっぽけな虎円に叩きつけたかった。それでも爪が食い込むほど拳を握り締めて怒鳴るのをこらえたのは、そんなことをしても余計にみじめになるだけだとわかっていたからだった。


「……ごめん、俺、気楽なこと言っちゃった。何もわかんないくせにごめん、おじさん」


 押し黙った祐賢を見て、虎円はすまなそうな顔をした。


「でも、頑張ってればいつか何とかなるって思ってるのは本当だよ。だって、二年前に流行り病で両親が死んだときはどうなることかと思ったけど、俺は今はこうやって何とかやれてるから」


 それはさらりとした告白だった。その内容にはあまりに見合わない、あっさりとしたものだった。


「……今、何と」


 虚を突かれた祐賢の口からやっと出た声はかすれていた。


「俺の両親は、二人とも流行り病で死んじゃったんだ。俺が言うのも何だけど、二人ともすごく優しくてさ。貧乏だったけど、幸せだった。そんな二人だから、同じ時期に同じ病にかかった俺に、無理してたくさん食わせてくれたんだ。……自分たちはお腹いっぱい食べたからって、笑って。でも、そんなわけなかった」


 いつの間にか虎円の声音は、今にも泣き出してしまいそうな物に変わっていた。


「二人は、自分の分を削って俺に食わせてくれてたんだ。それで、そのまま、死んじゃった」


 冬の名残の冷たい風が、二人の間を吹き抜けてゆく。


 虎円の痩せた体と汚れた衣が、祐賢の視界の中で浮き上がってきたようだった。


 痩せているのはろくに食べられていないから。衣が汚れているのは替えの衣も無く、洗濯もできないから。理路整然と祐賢を弁護できたのは、厳しい暮らしを生き抜かなく中で大人びなければならなかったから――今までの虎円の身なりや行動の理由が、祐賢の中で符合していく。


「その顔を見るに、おじさん、今まで気づいてなかったのか。色んなこと知ってるはずなのに、変なの。……あ、俺は、今はもう大丈夫だよ。二人が俺に命を残してくれたからには絶対百まで生きるって決めてるから。後、同じような境遇のやつらと助け合って生きてるし」


 顔を上げた虎円は、おどけるように言った。赤くなった目尻に皺を寄せて。それはきっと、祐賢に気を遣わせないためで、けれど、祐賢の心はすでに重苦しく告げていた。虎円が孤児であることに気づかなかったのは、自らの傲慢と無知の証明そのものだと。


 物心ついてから、祐賢はずっと机に向かってきた。来る日も来る日も書物をひもとき、軍を強くしりょうを打ち払うことを夢見ていた。


 軍を強くするには金がいる。戦をするにも金がいる。その財源は税と、歳出の削減。とりわけ、救貧は真っ先に蔑ろにされるだろう。だから、祐賢の理想の実現で一番苦しむのは、前線で戦う兵士と、弱い者たちだ。弱い者――そう例えば、祐賢の目の前にいる、このあどけない子供のような。


「ちょっと、おじさん大丈夫!? ひどい顔してるけど……もしかして気を悪くした?」


 不安げな顔で尋ねる虎円に、祐賢は慌てて首を横に振った。


「……いや、違う! 全く違う」

「……良かった。じゃあ、ついでに俺の苦労話聞いてよ! 実は結構大変でさー、普段はまともな食べ物にはほとんどありつけないし、冬は寒くてろくに眠れないし、住み込みで飯付きの仕事を探してるんだけど、そんなのなかなか無いし」


 虎円は唇を尖らせて自らの境遇を語った。自分の身を襲った不幸をちょっとした不満を漏らすみたいに言うのは、きっと表情が優れない祐賢の気持ちを和ませるためだった。


 ひどく胸が痛んだ。祐賢は、虎円たちを切り捨てようとしていたも同じだというのに。虎円は、祐賢を罵るべきなのだ。決して決して、祐賢に優しくする必要など無いというのに。


 思わずきつく唇を噛みしめた時だった。虎円が突然、祐賢ににっこりと微笑んだのは。


「……だから、今日食べられた包子が、俺にとっては千金と同じくらい嬉しいものだった。包子買ってくれてありがとね、おじさん」


 何の苦労も知らぬかのように無邪気に、虎円は笑っていた。


「随分話がとんだけど、俺が言いたかったのは、生きてりゃ何とかなるってこと。あと、辛くても幸せなことがたまにはあるってこと。だから、おじさんもきっと大丈夫だってことだよ」


 虎円の優しさが、祐賢の沈んだ心に波紋を作っていく。固く、両のこぶしを握り締める。


 ――私には何ができる? この子を助けるために、私にはできることは何だ?


 いつの間にか、祐賢は必死で虎円の助けとなるための手段を探していた。幾ばくかの逡巡の末、辿り着いたのは奇しくも今まで目指していたものと同じような結論だった。


「すまない。私は家に帰らなければならない」

「……ごめん、やっぱり気を悪くしたよね」


 不安そうな面持ちで、虎円が再び下を向く。安心させるため、祐賢は先程と同じように全力で首を横に振った。


「いや、違うんだ。逆だよ。科挙に及第せねばならない、理由ができた」


 科挙に及第し官吏となって、貧しい人の助けとなること――きっとそれだけが、祐賢にできることだ。祐賢の顔に浮かんだ久方ぶりの笑みには、失いかけていた難題への闘志が確かに宿っていた。



 

 





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